守り って?

こっそり こちらも2本め 書いてから寝ることにする

まあね どちらも 守るためなんだよね

私は『国籍関係なく 命』の立場だし

逆の人は『自分の周りの人の 命』

自分の身の周りに 自衛隊員がいたら さぞかし今 きついだろうな……

隣が 攻撃してくるかどうかはわからない

私は 対 お隣 への外交だけでなく

まず何より 全世界に向けての

この国の立場を

救命に方向づけることで

攻撃されにくい形へ整えていき

その上で 隣とも 

領土やら何やらの

支配権争いではない関係は 築けると思っているし

逆の立場の人は

とにかく今 隣が怖いから

今すぐ何とかしろ なのだ

今が怖い そこはね わからないわけではないけれど

米国の戦争に巻き込まれるなんてことはしない

という あの発言を聞いたとき

そりゃそうだ巻き込まれるなんていう

受け身の立場でなく

積極的に 参加しに行くのだから

巻き込まれた

などという 生ぬるいという状態にはならんわな と思った

まあ 隣が責めてきたら

今 喜んでいる人たちは ほら見たことか と言うのだろうし

積極的に海外へ人殺しに出かけて

見返りにテロが国内で起こり始めたら

私と同じ捉え方の人の一部が

ほら見たことか と言い出すのだろう

ちなみに私は 責めてこられようが テロが来ようが

どっちにしても辛くて悲しいわ 

人が人の命を どんどん減らすだけだもの

しかも どこかの都合にだけ 合わせてね

それを回避するための 立場的な努力どころか

積極的に命を奪い合える

その準備をすること自体

すでに違うと思えるもの

だがしかし 根っこの部分が

自己都合でしかない外交に

この国も再び 参戦する

とうとう 相手と同じ土俵に立つ

同じ穴のムジナになるという

そのこと自体も 悲しいわ

いつまでも 国 対 国 は

幼い子どものような発想しか

しちゃいけないのかなあ……

さらには 殺し合いを完全に正当化する

永世中立国なんて

なりたくもないよ それこそ

何とも悲しい話

日本人は再び 人殺しを正当化する民族となりました

 

 

外へ戦いに行くということ

それがいいとか 悪いとか

アタマではいくらでも 

理屈ではどちらでも 

言えるのだろうけど

人間として

他国の戦争を手伝いにいくことは

こういう人たちを

『増やす手伝い』をすることだという

事実

は 知っておいてもよいのだと思う

あなたが それを 選ぶのだ ということ

私たちが 選んだ政治家が

それを選ぶのだから

私たちも それを 

あなたも 私も それを 選ぶのだ

そのこと自体は

私はだけれどね 人間として 悲しい

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公開になっているので ログインしなくても大丈夫だと思えます

全文 読んでみてください

あなたにも 大切な人を思いやる

心 が あるのなら ね

米倉さんを 偲んで、、、、、、。大人になれなかった弟たちに…‥作 米倉 斉加年僕の弟の名前は、ヒロユキといいます。僕が小学校四年生の時に生まれました。その頃は小学校と言わずに、国民学校といっていました。僕の父は戦争に行っていまし…

Posted by ウインド ナギ on 2014年9月4日

 

 

外の世界への『勇敢』ではなく、自分の内側の『勇気』を

以前、友達が教えてくれて、使ってみたくなったカードに

『OSHO禅タロット』というのがありまして。

うん? はい、私、子供の頃すでに、タロットカードや星占いや

おまじないやらが大好きでした。前にも話したかな?

ええ、『My birthday』という占い雑誌も愛読しておりまして(笑)、

14歳の頃に、文字を扱う仕事をしたいと思えたのは

星座別の「向いている職業」欄に編集者、とあったから。

文字も文章を書くのも、本も好きだったし、

きれいな写真も好きだったので、

編集者っていいじゃない! と思ったのでした。まー単純(笑)

それを保ち続けた自分のモチベーションには、

今でもちょっと笑える。そのために4年生大学への道を選んだし、

ワクワク思い込んだらスゲー! なパワーあったんだな、私、と(笑)

ま、そんなことはさておき。

このカードから、発売元のOSHOという団体を知り、

仏教的な観念や、たとえ話も交えてのカードはなかなか面白いから、

きっとそういう学びの場所、団体なんだろうなーと思ってました。

でも、その教えを学びに行ってみるところまでは触手が動かず、

公式サイトも有料制だったので、ま、いいかー、と流していたのです。

で、Facebookのつながりから、OSHOの書籍もあるよ、

『Courage 勇気』という新刊もつい最近、出たよと聞いて、

たまたま、数日後にその書籍を扱っている本屋にも巡り会えたので、

ほう、と思って買ってみたのでした。

今の自分や社会に不必要なものは何か、なぜ必要ないのか、

ではそれをどう、自分の中からそぎ落としていくか、

ということを語った本で、

その『そぎ落とすための勇気』についての話が中心。

で、なぜ不必要なのか、の説明が、これまた容赦なくてねー(笑)

いちいち見事に、今の自分の状態や物事の捉え方などにリンクして、

まあ何ともいい意味で、この本、プスプス刺さる刺さる(笑)

人間が、愛を自然に発露していれば、

争いどころか国も宗教信仰も必要なくなるけれど、

自分のことを権力者だと思っている人達が、

それでは自分の存在意義がなくなって、

また、支配できなくなって困るので、

外側から見た『枠』みたいなものを、

これがいい、これが素晴らしい、と、子どもが小さいうちから

よってたかって社会全体で教えまくるのよー、とか(笑)(^◇^;)

自然な発露をわざわざいったん消してから、

宗教や社会的な規範(国家のルールも含む)を利用した

隣人を愛するってこんなこと、という刷り込みを行う。

そんなふうに『自分自身で感じること』を封印させ、

感じる、考える力を持たせないように仕立てていく……と。

ま、確かに究極を言えば、世の中の全員が愛から動いていくなら、

要らないだろうね、国やら宗教やらは。

ある説によると、戦うための道具は、日本で言えば

弥生時代から登場していて、その前の縄文時代、

約15,000年? の間くらいは、人が武器で争ったという痕跡は

いまだに発掘されていないそうな……。

ってことはもしかしたら、人って、

争わなくても生きていけるんじゃね? というような記事も

ちょいと前に(新聞系だったはず)あったのです。

そういう話も思い出しながらこの本を読むと、

なるほどなあ、と思える部分がいろいろ出てくるわけで。

たとえば、勇敢さ、という前向きな気持ちさえ、その前提として

『恐怖心』がないと、自分の中からは思いつかないこと。

そう、世界には恐怖がいっぱい、という前提の意識がまず

自分の中にある、世界をそう捉えているからこそ、

よし、私は勇敢になろう、とか決意するんだよ……と。

で、そういう勇敢さ、みたいなもののほうは、

前提を変えればそもそも持っていなくてもよくて、

今の世界の捉え方のほうを、自分がやめる、

その『勇気』を持っていこう、というふうに語られています。

なるほどね。

わざわざ消してから学んでるのかもね、愛って何なのか。

愛から始まる、思いやりやら温かさやら、優しさやうれしさを、

子どもの頃にいったん消して(消されることに自分が従って)から、

わざわざ今、自分の内側のその感覚を思い出そうと、

私もまた、試行錯誤しているってことかも。

ま、こういう書き方すると、ちょっと哲学っぽくもなるのですが。

そんなふうに私は「うーむ」「うーむ」とあちこちで唸りながら、

この本を読み進めております。刺さるので読むペースは遅い(笑)

読む人によって、また、読む時期によって、

受け止める部分も、浮かんでくる想いも違うだろうけれど、

でもたぶん、何かがよいほうへプスプス突き刺さるだろうと思えるので

まだ読んでいる最中ではありますがこの本、ご紹介しておきます。

勇気もまた、出すのが怖いものに思えるけれど、

実は『この世界を怖い、と、自分が思い続けていくこと』のほうが、

よほどもったいないことかもしれないよ?

ちなみに、『OSHO禅タロット』は、英語版なら

無料で1日1枚、ネット上にて引けます。

カードの意味の公式和訳も、本当はいけないんだろうけど

アメブロで紹介している人がいてくださいます(^0^;)

どんな感じの文章なのかを知る一助にはなるかと思えるので、

無料カードコーナーもリンクしておきますね。

和訳が載っているブログは、すみません、ご自分で探してみてください。

http://www.osho.com/zen_tarot/mod/paradox-zen-tarot

2015_02_05

『Courage 勇気』
OSHO 著/山川紘矢・亜紀子 訳
角川書店 刊 ¥1,728

顔の筋肉とか、気持ちとか?

メインブログで「紹介」と言ったから、書かないとね。

た、たいへんでしたが、ぜぇぜぇ(;´Д`)ノ(笑)、できました。

この「ういろう」というのは、お菓子ではなく、薬です。

現在も販売しているお薬で、仁丹みたいな感じだそうです。

気になる方は「ういろう 薬 小田原」で調べると、

実際に買った方のブログとか、出てきますよ~。

ちなみにそのメーカーさんのホームページはこちら。

ういろう社

通販はやっていないそうです。

で、この、長い台詞。演劇の滑舌や早口言葉大会などで有名らしい。

途中の「そりゃ そりゃ、そら そりゃ……」からは、

本当に早口言葉。本気出して読むと、舌と唇が疲れるのです(笑)

でも過去に、2回連続で、声に出して読んだら、真剣になるあまり

いらいらな気分が消えましたよっ(爆)

あと、この芝居は、歌舞伎の二代目 市川團十郎(いちかわ だんじゅうろう)さんが

演じられたそうで、初演は1718年なのだそう。

江戸時代の役者さん、人気狙いでがんばられたのですね! すごい~。

さあ、では、美容と健康のために(?)

すっきりしてみよう! 以下、どうぞ。

「外郎売りの科白」

二代目 市川團十郎(よっ!成田屋!) 

せっしゃ おやかたと もうすは、おたちあいのうちに
拙者親方と申すは、お立ち会いの中に

ごぞんじのおかたも ござりましょうが、
ご存知のお方もござりましょうが、

おえどをたって にじゅうりかみがた
お江戸を発って二十里上方、

そうしゅう おだわら いっしきまちを おすぎなされて
相州小田原一色町をお過ぎなされて

あおものちょうを のぼりへ おいでなさるれば、らんかんばし とらやとうえもん、
青物町を登りへおいでなさるれば、欄干橋虎屋藤衛門、

ただいまは ていはついたして えんさいと なのりまする。
只今は剃髪致して円斎と名乗りまする。

がんちょうより おおつごもりまで おてにいれまする このくすりは
元朝より大晦日までお手に入れまするこの薬は、

むかし、ちんのくにの とうじん、ういろうというひと、
昔、珍の国の唐人、外郎という人、

わがちょうへきたり、みかどへ さんだいの おりから
わが朝へ来たり、帝へ参内の折りから

このくすりを ふかくこめおき、
この薬を深く籠め置き、

もちゆるときは いちりゅうずつ かんむりのすきまより とりいだす。
用ゆる時は一粒ずつ冠の隙間より取り出す。

よって そのなを みかどより とうちんこうと たまわる。
依ってその名を帝より「頂透香」とたまわる。

すなわち もんじには「いただき、すく、におい」とかいて「とうちんこう」ともうす。
即ち文字には「頂き、透く、香ひ」と書いて「頂透香」と申す。

ただいまは このくすり、ことのほか せじょうに ひろまり、
只今は、この薬、事の外世上に弘まり、

ほうぼうに にせかんばんを いだし、いやおだわらの、はいだわらの、
方々ににせ看板を出し、いや小田原の、灰俵の、

さんだわらの、すみだわらのと、いろいろに もうせども
さん俵の、炭俵のと、色々に申せども、

ひらがなをもって「ういろう」としるせしは、おやかた えんさいばかり。
平仮名をもって「ういろう」と記せしは、親方円斎ばかり。

もしやおたちあいのうちに、あたみか そうのさわへ とうじへおいでなさるか、
もしやお立ち会いの中に、熱海か塔の沢へ 湯治にお出でなさるか、

または いせござんぐうの おりからは、かならず かどちがい なされまするな。
または伊勢御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。

おのぼりならば みぎのかた、おくだりならば ひだりがわ、
お登りならば右の方、お下りなれば左側、

はっぽうが はちむね、おもてが みつむね、ぎょくどうづくり、
八方が八つ棟、表が三つ棟、玉堂造り、

はふには きくに きりのとうの ごもんを ごしゃめんあって、けいずただしき くすりでござる。
破風には菊に桐の薹の御紋を御赦免あって、系図正しき薬でござる。

いや さいぜんより かめいのじまんばかり もうしても、
いや最前より家名の自慢ばかり申しても、

ごぞんじないかたには、しょうしんの こしょうのまるのみ、しらかわよふね、
ご存知ない方には、正身の胡椒の丸呑み、白河夜船、

さらば ひとつぶたべかけて、そのきみあいを おめにかけましょう。
さらば一粒食べかけて、その気味合いをお目にかけましょう。

(ここ、一粒を「いちりゅう」と読む説もあります。下同じくです)

まず このくすりを、かように ひとつぶ したのうえにのせまして、
先ずこの薬を、かように一粒舌の上にのせまして、

ふくないへ おさめますると、いやどうもいえぬは、 い しん はい かんが すこやかになりて
腹内へ納めますると、いやどうも言えぬは、胃・心・肺・肝がすこやかになりて

くんぷう のんどよりきたり、こうちゅう びりょうを しょうずるがごとし。
薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。

ぎょちょう・きのこ・めんるいのくいあわせ、そのほか、
魚鳥・茸・麺類の食い合わせ、その外、

まんびょう そっこうあること、かみのごとし。
万病速効あること、神の如し。

さてこのくすり、だいいちの きみょうには
さてこの薬、第一の奇妙には、

したのまわることが ぜにごまが はだしでにげる。
舌のまわることが、銭独楽がはだしで逃げる。

ひょっと したがまわりだすと、やもたても たまらぬじゃ。
ひょっと舌がまわり出すと、矢も楯もたまらぬじゃ。

そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわってきたわ、まわってくるわ。
そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわってきたわ、まわってくるは。

あわやのんど、さたらな したに、かげさしおん、
あわや候、サタラナ舌に、カ牙サ歯音、

はまのふたつは くちびるのけいちょう、かいごうさわやかに、
ハマの二つは唇の軽重、開合さわやかに、

あかさたな はまやらわ おこそとの ほもよろお。
あかさたなはまやらわ、おこそとのほもよろお。

ひとつへぎへぎに へぎほし はじかみ、ぼんまめ ぼんごめ ぼんごぼう、
一つへぎへぎに へぎほし はじかみ、盆豆 盆米 盆ごぼう、

つみたで つみまめ つみざんしょ、しょしゃざんの しゃそうじょう。
摘み蓼 つみ豆 つみ山椒、書写山の社僧正。

こごめのなまがみ こごめのなまがみ こんこごめのこなまがみ
粉米のなまがみ 粉米のなまがみ こん粉米の小生がみ。

しゅす・ひじゅす・しゅす・しゅちん、
繻子・ひじゅす・繻子・繻珍、

おやもかへい こもかへい、おやかへい こかへい こかへい おやかへい。
親も嘉兵衛 子も嘉兵衛、親嘉兵衛子嘉兵衛 子嘉兵衛親嘉兵衛、

ふるくりのきの ふるきりくち、あまがっぱか ばんがっぱか、
古栗の木の古切口、雨合羽か番合羽か、

きさまの きゃはんも かわぎゃはん、われらが きゃはんも かわぎゃはん、
貴様のきゃはんも皮脚絆、我等がきゃはんも皮脚絆、

しっかわばかまの しっぽころびを、みはり はりながに ちょと ぬうて、
しっ皮袴のしっぽころびを、三針はり長にちょと縫うて、

ぬうて ちょと ぶんだせ。
縫うてちょとぶん出せ。

かわらなでしこ のぜきちく、のらにょらい のらにょらい みのらにょらいに むのらにょらい。
河原撫子 野石竹、のら如来 のら如来 三のら如来に六のら如来。

ちょっと さきの おこぼとけに おけつまずきゃるな、ほそどぶに どじょ にょろり。
一寸先のお小仏に おけつまずきゃるな、細溝に泥鰌にょろり。

きょうの なまだら なら なま まながつお、ちょと しごかんめ、
京の生鱈 奈良生学鰹、 ちょと四五貫目、

おちゃたちょ ちゃたちょ ちゃっと たちょ ちゃたちょ、
お茶立ちょ茶立ちょ ちゃっと立ちょ茶立ちょ、

あおだけ ちゃせんで おちゃ ちゃと たちゃ、 
青竹茶筅で お茶 ちゃと立ちゃ、

くるは くるは なにがくる、こうやのやまの おこけらこぞう、
来るは来るは 何が来る、高野の山の おこけら小僧、

たぬき ひゃっぴき はし ひゃくぜん てんもく ひゃっぱい ぼう はっぴゃっぽん。
狸百匹 箸百膳 天目百杯 棒八百本。

ぶぐ ばぐ ぶぐ ばぐ、みぶぐ・ばぐ、あわせて ぶぐ ばぐ むぶぐ・ばぐ
武具 馬具 武具 馬具、三武具・馬具、合わせて武具 馬具、六武具・馬具、

きく くり きく くり、みきく・くり、あわせて きく くり、むきく・くり。
菊栗 菊栗、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗、

むぎ ごみ むぎ ごみ、みむぎ・ごみ、あわせて むぎ ごみ、むむぎ・ごみ。
麦ごみ 麦ごみ、三麦ごみ、合わせて麦ごみ、六麦ごみ。

あの なげしの ながなぎなたは、たが ながなぎなたぞ。
あの長押の長薙刀は、誰が長薙刀ぞ。

むこうの ごまがらは、えのごまがらか まごまがらか
向こうの胡麻がらは、荏のごまがらか、真ごまがらか、

あれこそほんの まごまがら。
あれこそほんの真胡麻殻。

がらぴいがらぴい かざぐるま、おきゃがれ こぼし おきゃがれ こぼうし、
がらぴいがらぴい風車、おきゃがれこぼし おきゃがれ小法師、

ゆんべも こぼして また こぼした。
ゆんべもこぼして またこぼした。

たあぷぽぽ、たあぷぽぽ、ちりから、ちりから、つったっぽ、
たあぷぽぽ、たあぷぽぽ、ちりから、ちりから、つったっぽ、 

たっぽ たっぽ いっちょうだこ、おちたら にてくお、
たっぽたっぽ一丁だこ、落ちたら煮て食お、 

にても やいても くわれぬものは、ごとく・てっきゅう・かなぐまどうじに、
煮ても焼いても食われぬものは、五徳・鉄弓・かな熊童子に、

いしくま・いしもち・とらくま・とらきす、
石熊・石持ち・虎熊・虎きす、

なかにも とうじの らしょうもんには、
中にも 東寺の羅生門には、

いばらきどうじが うでぐりごんごう つかんでおんしゃる。  
茨木童子が腕栗五合 つかんでおむしゃる。

かのらいこうの ひざもと さらず、
彼の頼光の膝元去らず、

ふな・きんかん・しいたけ、さだめて ごだんな、
鮒・金柑・椎茸、さだめて後段な、

そばきり、そうめん、うどんか、ぐどんな こしんぼち、
そば切り、そうめん、うどんか、愚鈍な小新発知、

こだなの、こしたの、こおけに、こみそが、こあるぞ、こしゃくし、こもって、
小棚の 小下の  小桶に、こ味噌が こ有るぞ、小杓子 こ持って、

こすくって、こよこせ、おっと がってんだ、こころえ たんぼの
こ掬って、こよこせ、おっと合点だ、心得たんぼの

かわさき、かながわ、ほどがや、とつかは、はしっていけば
川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚は、走って行けば

やいとをすりむく、さんりばかりか、ふじさわ、ひらつか、おおいそがしや、
灸を摺りむく、三里ばかりか、藤沢、平塚、大礒がしや、

こいその やどを ななつ おきして、そうてんそうそう そうしゅうおだわら とうちんこう、
小磯の宿を 七つ起きして 早天早々 相州小田原 頂透香、 

かくれござらぬ きせん ぐんじゅの、はなの おえどの はな ういろう、
隠れござらぬ 貴賎群衆の、花のお江戸の花ういろう、

あれ あのはなをみて おこころを、おやわらぎゃっという
あれ あの花を見て お心を、おやわらぎゃっという

うぶこ、はうこに いたるまで、この ういろうの ごひょうばん、
産子、這う子に至るまで、此の外郎の御評判、

ごぞんじないとは もうされまいまいつぶり、
ご存知ないとは 申されまいまいつぶり、

つのだせ、ぼうだせ、ぼうぼう眉に、
角出せ、棒出せ、ぼうぼうまゆに、

うす・きね・すりばち、ばちばち ぐゎら ぐゎらと、
臼・杵・すりばち、 ばちばちぐゎらぐゎらと、

はめを はずして こんにち おいでの いずれもさまに、
羽目を弛して 今日お出でのいづれも様に、

あげねばならぬ うらねばならぬと、いきせい ひっぱり、
上げねばならぬ 売らねばならぬと、息勢引っぱり、

とうほう せかいの くすりの もとじめ、やくしにょらいも しょうらんあれと、
東方世界の薬の元締め、薬師如来も照覧あれと、

ほほぅ うやまって、ういろうは、いらっしゃりませぬか。
ほほぅ敬って、ういろうは、いらっしゃりませぬか。

ぜぇぜぇ(笑)

どこまで、欲するのか

地球から戦争がなくなればいいね、なんて

短絡的なことをいきなり言うつもりはないけれど。

戦争してまで欲しいのはたいてい、土地か資源。

今はもう、奴隷制度は国際的に(表面上)、あり得ないから、

一番は、資源(の支配権)だろうと思う。

宗教的な憎しみ合いは、宗教に名を借りて、本当は民族的な感覚で

お互いが「相手を滅ぼしたい」という根源的な部分を持っている可能性はある。

少なくとも今のガザへの攻撃には、それが混ざっているかも、と思える。

でも「多民族」がいる地球で、ある民族が、

他の民族を丸ごと「滅ぼしたい」と思うこと自体、

もはや現代社会では非現実的、な話である。

先の話でも書いたように、スペインはインカ帝国を民族ごと滅ぼして、

その土地と資源(金目のもの、だね)を奪った。

それで他の国も「ウマイこと、やってやがるな」とばかりに、

「新世界」を奪いまくったわけだけれど。

もっともっと、の強欲で、人のものを暴力で奪うのは、本来、

智恵の足りない人がやりそうな犯罪、だし、

それを目的に相手を殺すのも、力で脅して相手を支配するのも、犯罪。

飢えた子どもが切羽詰まって目の前の食べものを盗むより、

ずっとずっと、欲深い、罪の重いもの。

16世紀ならいざ知らず、私たちは感覚的に、

それを「すでに」犯罪だと知っている。

でもなぜか、国単位だと、いまだにやっているのだ。

ずっと「智恵の足りない強欲の状態」のままが、

人として当たり前なのだろうか。

たとえばまっとうに成功して、金を稼げたとする。

それで? プールとテニスコート付きの家を買い、

高級車も買って、毎週末にパーティーでもしてみる?

そこには、金の匂いにだけ釣られてやってくる人もいっぱい混ざるだろうし、

一見、友人関係が広がったように思えても、いつまで楽しいかな。

きちんとした友情、そこで山のように作るってことかな。

100人の人と真の友情を紡いでみたいとか?

それにそういうのを一度持ったら、結局は次に、

それを維持していかなくちゃいけない。

没落、なんて後ろ指は指されたくなくなるだろう、見栄で。

趣味で車大好きならともかく、車、飾り物にならないかな。

車でしょっちゅう外出するなら、家にいないってことだから、

プールやテニスコート、使うのかな。

それにプールの水の手入れ、たいへんだよね、

塩素ドボドボ入れたら、自分の身体に悪いし。

テニスコートのコート面だって、メンテナンスが必要で。

当然、周囲には庭が欲しいだろうから、その手入れも必要。

全部、自分でできないだろうから、好きなときに使いたいなら、

人を雇ったり職人や掃除人を呼んで、完璧に維持管理しないと。

こうやってお金は出ていく一方になるから、もっと稼がないと。

それらが全部、利子でできるくらいにならない限り、

維持するためには必死で働かなくちゃいけなくなる。

それこそテニスやスイミングする時間、なくならないかな。

セキュリティだって、たいへんだよー。金の匂いで狙う人、たくさんいる。

泥棒や強盗だけでなく、ライバル意識や嫉妬心を持ってる人まで、

一生、相手にしていかなくちゃいけない。

なかには、暴力的手段に訴える人もいるだろう。

家族の誘拐、とかさ。

うん、欲を持つなとは言わないよ。

でもいったい、どこまで、欲しいのさ。

どこまで、そんな物質で幸せを得たいのさ。

それで完璧に満たされるのかな、本当に。

もっと切実な例もある? アフリカ諸国の水の問題、とか?

水の権利は命に関わるからと言って、

国内でまったく何の工夫もせず他国へ水を奪いに行き続けるのも、

キリがなくないかな?

その国の住民、皆殺しでもしない限り、必ず恨みつきで、やり返されるよね。

逃げる人もいるし、どう考えても皆殺しは無理だよね。

で、その水の問題が解決、と言えるのかな。

それしか方法、ないのかな。

乾燥に強い種を蒔くところから土地を育て、

いずれは植林していくのは、国としてダメかな。

そのほうが長期的に見て、恨み→恨み返しを繰り返すより

人口等も安定していくんじゃないかな。今は、技術も進んでるよ?

やったら、いつか、やり返される。

それがイヤだから、隣の大国が今、自治区にあんなことしてるわけで。

しかも前世紀に同じことをやった欧米は、

だから今、隣の国を非難できなくて。

その強盗的な欲深さ、憎しみ合いの永遠の連鎖。

いったいいつまで、続けるのだろう。

そのために犠牲になる子どもも、たくさんいるのに。

物ごころついた頃からいきなり、あいつらは憎々しい敵だと

大人から刷り込まれながら育つ子どもが。

避難して栄養失調になり、攻撃で手足をもがれ、

それでもこの先、大きくなって生きていく子どもが、たくさんいるのに。

なぜこんなことを書くかというと、

先日「国境なき医師団」に臨時の寄付をしたら、

活動案内の小冊子が届いたから。(※1)

そこの活動報告、ありがたかったけど、悲しかった。

そして、冊子に付いていた「命のうでわ」の付録。

生後6ヵ月~5歳までの子どもの二の腕に巻いて測ることで、

即座に栄養失調の度合いを判断できるのだという。

2014_07_28.png

 

 

 

 

 

写真に撮ったのは「中程度」(中の中、クラス)の腕サイズ。

これで二の腕の周囲は12cm(比較のために500円玉を置いてます)。

この細さでも「即、入院治療」まではしなくていいらしいけど、

こんな(あるいはこれ以下の)二の腕を持った子どもたちが

争いなどに巻き込まれていて、難民キャンプ等、今、世界中には

本当にたくさんいるのであろうという事実に、胸が痛む。

しかもその子どもたちはすでに、あるいはこの先、

恨みや憎しみを、大人から刷り込まれている、

刷り込まれるのかもしれない。

こんな連鎖をさ、不幸と言わず、なんと呼ぶのだろうね。

国家や宗教の正当性? ふざけんな。これが正しいことってなぜ言えるの?

もう本当に、こういうの、いいじゃない。

命も含め人のもの奪わずに、お互い努力して取引しながら、幸せになろうよ。

殺人できる力を示して偉そうにするの、恨み買うからやめようよ。

維持が一生、たいへんな見栄、本当に自分に必要なら、

自力のみでやりなよ、人のもの、奪わずに。

そんなに光量もまぶしくしないといけないの? でないと儲からない?

原子力発電が今、できなくて電気の発電量が減るなら、

その他の電力供給方法(石油・石炭・天然ガス以外ね)が

実用化されるまで、少しずつみんなで節電しようよ。

そして何より、実用化のほうを応援し、本気で考えようよ。

核のゴミが再利用できると言ったって、その原料ゴミのうち5%だけで、

残り95%は、汚染ゴミのまま廃棄なんだよ。

それに200年、絶対完全に、安全に保管できる技術なんて、日本では持てない。

地震だらけでやがて必ず密閉できなくなり、200年のうちにはどこかから漏れる。

ましてや高速炉なんて、まだまだ開発しきれない。

技術的失敗が起こっても、人間はそこへすぐに立ち入ることができないから。

それに従来の原子力施設のメンテナンス、浮浪者使って掃除などをさせるの、

電力会社はいつまで続けるつもり? それも企業の正当性や需要と供給の話にでもする?

もう、力を示して奪ってふんぞりかえりたい暴力的幼稚世界に憧れるの、やめない?

日本は、日本からまず、「自分が」心温かくなれて幸せになれる国を、つくろうよ……。

国際貢献も、人命救助と「生きていくための暮らしの確立」貢献に特化していって、さ。

そうやって、日本が持つ「相身互い」の心のほうを、

世界に伝え、売っていこうよ、細やかなサービス管理等の、ソフトとともに。

威嚇やふんぞり返りや最新国産武器や、命差し出し付きの人的資源でなく、さ……。

なぜ、その方法はダメで、武器や命を使ってでも従来のやり方だけで

古い頭のムカつく人を暴力的に威嚇して、

そうやってこっちも智恵の足りない人に成り下がって、

何が何でも超大国にならなくちゃいけないのだろう。

暴力的手段に訴え、人間としての心(と、ヘタすりゃ若者の命いっぱい)を捨ててまで、

テロリストを呼ぶことになっても、経済分野のみで争い、他国を従え、

お金のみで、世界一、豊かにならなくちゃいけないの?

それしか幸せになる方策はないの? 株式公開に頼りすぎの部分はないの?

最後に補足的に情報ひとつ。

人間という「種」を、生物学的に考えた場合、

違う遺伝子をできるだけ多様に残すことは

「生物学的戦略として合っている」という説明を。

これに近いことを、確か高校のときに学んだ記憶がある。

なぜ昆虫がこんなに多様化し、個別形態化(色違いや柄違い)も激しいのか、で。

人間も同じなんだよねー。

その意味でも殺し合いは「生物として向いていない戦略」だとわかるよ。

端的に言えば「(力の)弱いものが死ね」という発想なわけでしょ?

それ、弱肉強食ってことだよね。

理由はなんであれ、解決手段は暴力が強いモノ勝ち。

ならばそもそも障害のある人間は生きられないってわけ?

その視点とまったく同じ発想なんだよ、戦争って。なぜおかしいと思わないの?

憎しみ強すぎて感覚的に納得できなくても、この記事読んで、どう感じるのかな。

自分たちのほうが優秀とか、決めつける? 相手と同じ暴力的手段使ってでも。

http://ow.ly/zDsJL

(※1)「国境なき医師団」は完全なる民間団体で、

医療だけでなく生活の安全や避難生活における

暮らしの衛生や向上等の面でも活動している、とのこと。

定期額寄付は月額1500円~なので、私も検討しようと思っています。

フェイスブックでも、定期的に活動報告が行われています。

国境なき医師団 日本 ホームページ

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