月別アーカイブ: 2014年4月

不思議なこととか、神秘的なこととか

メインブログにも書いたことがあるけれど、

私は、自分が「死ねなく」なったあと、「なぜ生きていいのか」を

知るために、宗教、心理、哲学、その他社会的なこと、歴史も含め、

情報を探し求めた時期がありました。

「生きてちゃいけない」という思いのピーク時で、

本気で死に方を迷って、怖くて。

でも生きていていいと思えず、どうすればいいのかと

ひたすらおびえていたときに……友人が急逝し。

その衝撃でしばらくは死ねないな、と思っていたら知人が自死し。

これでもう、自死はやっぱり無理じゃないか、と

思って、回復も視野に入れて生き始めたら、別の知人が連鎖で自死した。

どうしよう、と思っている2年半の間に、自分がこんな

「死ねなくなるようなこと」を(まあ、そういう方向へ

私がわざわざ受け止めた、という説もあるが)

3回も経験するなんて、何の意味があるんだ? と思ったのです。

で、死んだあとに何があるのかも本気で知りたくて、

世界3大宗教の本や講話、さらにより原始的な宗教の話や

伝記なども読み漁り、三輪明宏さん、江原啓之さんなどをきっかけに

海外のスピリチュアルな本も読み……。

他にも、心理学、医学的見地からの死、哲学的な生、

医学家や宗教者の語る臨死体験、宇宙や生命の成り立ち、

次元、空間、時間の理論等々。

気になるものは、片っ端から探しては読んだ。

生とは何なのか、死とは何なのか。

その答えは、結局、見つかったわけではないです。

でも、なんかね、感覚的に。

人智を超えているものは、ありそうに思えた次第。

私の身体は、昔、星だったもの(そこに含まれていた成分)から

主に成り立っていて、

その星が「寿命を迎えて爆発」してくれたからこそ、

地球にまで届いて、今現在、私の身体の一部になっている。

星の寿命? 生命体でなくても、私たちはそういうふうに、

ものごとを捉えている。そういう仕組みを持っている。

寿命が来たら活動をやめる(姿を変える、つまり変化する)、

という「ルール」を当てはめることができるのは、

生命体に限らない。変化はずっと、今も起こり続けている。

そしてこの生命体、と呼ばれる地球上の生物って、

小さな惑星、地球の「おもに地表上」にいる(海も含め、

星の内部、ではないという意味で)。

で、人間が住む陸地に絞って考えてみると、

「海の底でない地表」って、

地球の表面積のうち、30%しかなくて。

その30%のうち、山脈や森林や砂漠など

命にとって過酷な条件の地域も除いた、

さらに少ない面積の土地に、私たちは住んでいて。

上に伸びるといっても、建物ってせいぜい、

今のところのデータでは1,000m程度が限界っぽいし

(耐震構造上の関係らしい)、

飛行機だって最高13,000mの上空を行きかってるだけ。

宇宙のサイズ、規模から考えれば本当に、

どこにしがみついているのか、っていう存在。

そんな小さい範囲で、一緒に生きてるのに、

より強いだのよりエライだの、こっちのほうが正しいだの、

そんなことを証明するためだけに、小規模、大規模、それぞれに

ののしりあったり、殺しあったり……。

しょうもないケンカをそれこそ、何百年も繰り返してて。

「人間という生命体」、その視点で見たとき、

それって本当のところ、どうなのよ、と。

権利とか云々、言い張って、他者を平気で傷つけられるのって何?

じゃあそもそも、あなたが自分で、

自分や他人の命の仕組みとか、身体を作ったの? って

思えたりするのです……。

で、さらに。

なのに確かに、私はここで、今、呼吸している。

これって何なのだろう、って思うと「もうわからんよ」となる。

そんな簡単にわかるようには、できてないのじゃないかと。

科学で証明されうることだって、まだまだ限界いっぱいあるし。

この「もうわからんよ」っていうのって、

人智を超えてる、ってことでもあると思う。

さて。

怪しい部分にも触れていきますよ。

親子や兄弟・姉妹などの間で、互いの身に異変が起きたとき、

遠く離れていても、それを感じ取ることが「実際に」あるという。

双子のどちらか片方が怪我をしたとき、離れていたもう1人も

同じ箇所に痛みを感じた、とか。

これは世界的にも研究されていて、日本でも東大だったかな、

子どものころから双子の成長記録を本気で追いかけてます。

これはまあ、ね、人と人とのつながりなんだから、

よくわからないなりに「ありうる」程度で

済ませられる、と思える人もいるでしょう。

では次。

私が中学生のとき、ある友人から、

その子のおばあちゃんの話を聞きました。

すごくインパクトある話だったから、覚えてるんですよ。

中1のときのことです。

このおばあちゃんは、友人いわく、すこぶる「勘のいい人」らしい。

ウチのおばあちゃんね、この前、外へ買い物に行ってたの。

そうしたら途中、なんかすごい「いやな感じ」がして、

急に、家のことが気になったから、

買い物を切り上げて家に帰ったんだって。

そうしたらなんと! おばあちゃんの家に、

泥棒が入ってたのよ!!

その泥棒がつかまったのか、逃げたあとだったのかは、

定かではありません(確か、入って去ったあとに

おばあちゃんは帰宅した、かもだが、すみません、忘れた)。

そして孫であるその友人は「ウチのおばあちゃん、すごいよね」で

終わってましたが。

さあ、これはいったい、何なんでしょ? って話。

第六巻? 家が、何かをおばあちゃんに知らせた?

でも家って、生命体でもないのに?

それとも家のなかの「何か?」 何かって何?

えーと、おばあちゃんの結界範囲、とか?

はい? そもそもじゃあ結界って? 

……正解なんて、わからないよね、これ。

宗教的な話で「説明をつけようとしたら」

よく使われそうな何かの言葉で(それこそ結界とか)、

なんとなくつくかもしれないけど。

「そんなの嘘だよ」って言葉で、片付けるのも簡単。

でも孫に「わざわざ」そういう嘘を言うおばあちゃん?

わりと仲もよさそうだったのに?

つまりは、そう、わからない。

で、自分がわからないからって「それは嘘」とも言い切れないのです。

全部、嘘とは限らないのでは、と。

別に、超能力者が全部本物だとか、霊魂は本当にいる、とか、

そういう過激で端的なことを言ってるわけではありません。

でも、ない、とも「絶対」には証明できないもの、でしょう?

それを嘘、と言い切るのって、実は「信じたくないだけ」かも。

なぜなら、わからないものは、怖いから。

わからないものは、当てにはならないから。

場合によっては、それがもし本当なら、

自分にはないので「うらやましい」、あるいは「悔しい」から。

心の奥では、そういうことかもしれないんですよ。

ゆえに、「認めたくないという拒否」が働く、と。

で、最初の話に戻ります。

私に実際、起こった、3回の、

(あえてこういう表現をしますよ)タイミングが合った、他者の死。

そのそれぞれに、私にとってのみタイミングが合った「偶然」3回が、

たまたま私に対し続いた、ってことでしょうか?

私には「もはやわからない」のです。

ただ「偶然かどうかわからない」という程度には、

自分なりに「謙虚」である、とは思えています。

自分に目立った「能力的なもの」(超能力とか、霊が見えるとか)が

備わっていないからといって、

私の経験は単なる偶然である! とか

他人のそれらを「完璧にイカサマ!」と断言できるほど、

私は、確たる証拠を持っているわけではないのです。

人智を超えた形で今、自分がすでに存在している以上

(私は自分の命を自分で『作って』はいませんし、

成長の仕組みづくりにも『関わって』いないのですから)、

そういうものが「そういうふうに見える、現れる、表せる」人が

いないとも限らない。いても、おかしくはない。

ただ、私がわからないだけで。

私に起こったことも、なんらかの意味があるのかも、と。

はい。ですので、単純に信じる、信じない、ではなく、

可能性としての話で言えば。

そういう人はいる、また自分にさえ起こる「可能性がある」、ということを

私は、否定できません。

それを「じゃあ信じるのね」と言われれば

「否定できないという私の言葉を、

あなたはそう受け止めるのですね」ってことですし、

「信じてないの?」と言われれば

「自分では証明もできないので、わからない」となります。

ま、感覚的には、

人智を超えて届く・その他、の「何か」があったほうが、

しかも「心が温かくなる方面」のものならなおさら、

あったほうがいいよね、うれしいよね、というところです。

なので、もしあった場合には、私は気づけないんだけど

相手にちゃんと届くかもしれないので!

私はとくに、心が温まる方面の気持ちについては、

ちゃんと丁寧に「こめる」ことにしたい、と思えています。

対人にせよ、モノを相手にするにせよ。

もしかして、いつか「何か」が泥棒を知らせてくれたら、

それだけでもちょっと助かるかも? などと

楽しく想像できたりもしているのです(≡^∇^≡)

「生きる」のパラダイム・シフト、始まってる? ~後編~

そして後編からいきなり「ですます調」をやめます、私。

すみません、以降はそれだと書きづらいので(;^_^A)

でも最後のほうには戻るかと(笑)。

辻さんは「スローライフ」を提唱されてきた方なので、

グローバル化する(そして弱肉強食・肥大・勝敗によってしか成長できない)

市場経済の限界などについても言及されているのは知っていたけれど、

弱さの「思想」って何を表しているんだろう、と思っていた。

お二人の、面白いわ興味深いわ(笑)なトークが進むうちに、

そうした競争原理主義社会の「今までの価値観」って、

本当にひっくり返されてきてるんだな、

しかもあくまでローカルに、世界中のあちこちで、ってことがわかった。

で、実際この書籍は、社会論や思想論だけでなく、

いろいろな方面で起こりつつある

そのあちこちの例をも、紹介しているのだ。

老人たちが原発反対運動を「楽しみ」つつ自然に支えあう過疎の村、

子どものホスピス、障がい者こそが中心で発展してきた街、

「居場所がなくなった人たち」がやってくるコミュニティ的組織など。

それらはすべて、市場経済の競争原理の世界には「いない」人たちで、

世間ではこれまで「弱者」扱いをされてきた人たち。

日本で言えば、中央集権で「切り捨てに遭ってきたミジメな」と

形容されている「はず」の人たちだ。

でもそこに、新しい「世界」が確かに生まれている。

それは本来、人間が「持っている良さ」のひとつ、

多様性(ダイバーシティ、diversity)にも基づくものであり、

しかも「最弱の者たちが影響を、周囲に自然に与えて、

他者の価値観をひっくり返す、それもいい意味で」

ということが起こっている、と。

まもなく亡くなることがわかっている「子どもホスピス」の

子どもたちに見つめられて、自身の生き様を振り返らずにいられない親。

親の落ち込みがいちばん心配、と優しく話す子どもたち。

そこは静かで明るい現場。生と死がつながっている場。

しかも、もっとすごいなと思えたのが

子どもが亡くなったあとの家族が「生き直す」ためにも、

その子どもホスピスは役立っているのだ。

そうした子どもたちや家族が集まれる、そこにいられることで、

自然に、グリーフ・ケア(悲しみを癒し、立ち直るケア)の

役目も果たしている。

今までの社会では「切り捨てられてきた」人たちが

お互いの居場所を作り合える。

「助けられる・世話になる」のが絶対に嫌なおじいちゃん、の話も出てきて、

でも「おじいちゃんのほうが助けてあげられる」部分があれば、

支え合って生きる場所が生まれ、うん、ただそれでいいのだ、という事実。

効率化の正反対であるとして、できるだけ排除されてきた多様性を

弱者の側が「よいもの」として扱い、情報もよい意味で開示する。

隠さず示すことで「いわゆる『強者の立場』の者」にさえ

影響を与えられるほど、

今まで忘れ、切り捨てられてきた「良さ」を、示すことができるのだと。

しかもそれは、人間存在の根源に関わっている、と。

ほかにも、性差の違い(私はこれ、個人にもともと内在している

男性性と女性性のバランス、にもつながる内容だと思える)、

フォース(外の力、どうしても奪い合い・示し合いになり上下が生まれる力)と

パワー(個人が内側にもともと秘めているそれぞれの力)の違い。

障がい者が中心にいることで、街のみんなが人間的な豊かさに恵まれ、

住みやすくもなり、ゆえにその国で「住みたい街」として認識されていったり。

しかも自発的に「そうなっていくがゆえに、延々と試行錯誤していく」ものは、

支配の有無や勝ち負け、効率、とはまったく別の「価値」を生み出すのだ。

先日、NHKの「News Web」でも「ソフトヤンキー」という造語が

紹介されていて、それは地元を離れない、

上下関係でも礼儀正しく、優しさもある、でもヤンキー(笑)な

若者たちを指すのだが、こういうあり方って、

まさに「(中央などで目立って)成功して勝者になるのがすべて」とか

「これだけが正しい、かつ強い権力、あとは負け」みたいな影には

おびえないでいられると思える。

そしてそれを、今までは「脱落」と呼んできたけれど、

じゃあ実際、本当の「勝者」、楽しくて幸せで気楽で、

夢中になれる子どもの遊び的な部分もゆるされていて、

変なプレッシャーも受けないで済むのはどっちだろう? と。

社会的な成功って、最終的にそういう楽しみを味わうために

「まずこの壁の乗り越えを達成すべき」みたいに言われてこなかったっけ?

でもさ、今まで言われてた「この壁」って、どこまで、あるいは必要なの、本当に?

私が「私のようなタイプは、鬱になって、結局よかったのかも」と

これまで捉えてきた部分が、見事に「社会に溶け込みつつ変えていく

新たなパワーのひとつ」として、多角度から紹介されているのだ。

くだらない縛りはないけれど、そこでは管理もされないから、

「何も考えずに済むように、支配されてるほうが気楽」

というタイプの人には向かないのかもしれない。

でもその姿勢って本当は、自分の「パワー」を放棄してて

かなりいいように「こき使われ、利用されて」ますけど

(今、支配しているはずの側だって結局、自分の損得と脱落には

常におびえ続けていかなくちゃならないしね)、

あなたは、ホントにそれ「が」いいの? って、

死に向き合う子どもから聞かれているのかも……。そんな気がする。

弱いままでも、あるいは弱いほうが、この先の未来、

新しく楽しめる「いい生き方」を見つけられるかもですよ、マジで。

そこを、個人でも探せる時代になってきている。

すでに価値観のパラダイム・シフト(paradigm shift、

認識、思想、価値観などの劇的変化)は確かにひそやかに、

起こり始めているようなのだ。

もちろん、問題はそれなりに個々の現場で起こるんだろうけれど、

実は多様性って、すごい話だけれど「解決しないで内包」できちゃう部分がある。

あなたはそう、私はこう。違いがあるのね、うん、そうか。

じゃ、関わらないでおこう。

それはちょっとさ、周囲も実は、迷惑こうむるんだけどね……。

でもまあ……とりあえずいいか、和解、今は無理そうだから。

以上。

それでOK、画一的な絶対的「正解」はいらない世界。

その代わり、性悪……というか「自分だけがよければ」の

価値観のままだと、やがて居場所がなくなると思う。

周囲から攻撃されて排除されるのではなく、

本人がその状態では「安心して居られなくなる」から。

そういう距離感、人とのつながり方を作り出していく練習も

多様性を基本前提として自分がふまえることにより、

無理なく自然に、積めるだろうと思う。そこは新しい捉え方になっていくから。

あ、これは、ある生協さんの組織と仕事をして、

ちょっと実感してたことです。

ホント、だんだん、居場所を「自分で勝手に」なくしちゃうのだ……。

ま、ほかにも、アートな世界の方が「お手伝いしに」行ったはずなのに

ダウン症児の感性に打ちのめされる、その組織の話、

なんていうのも載っている。

弱者であるがゆえの素晴らしい影響力。ステキで面白そうでしょう?

てなことで。

病、障がい、介護、老い、などに、仕事やプライベートで

関わる方、またはご本人、はもちろんのこと、

ホール(全体的)な視野の「業務」や「生きがい」に関わる方、

まさにそういう生き方の方、

教育、環境、社会、経済系の問題に関わる方、

子育て中の方、この先、老いを迎える方、老後をお過ごし中の方。

なんだか、それぞれに楽しそうな生き方が、実はまだまだあり、

しかもそれが勝手に他者への貢献にも「ときにつながっちゃう」

ようなことが、いい感じでこの先、ありえるのかも。

その可能性を、社会が、世界が、はらみ始めているという、

その新しい視野の話。

温かく優しくしなやかな「希望」の、

さまざまな例と可能性をたっぷり示してくれる1冊です。

新しい形の「ステキなあり方」、ぜひ読んで、受け止めてみてください。

私は読めて、ホントよかった……。高橋さんの告知ツイートに感謝しますm(_ _)m

おかげで私、この先ワクワクしながら「成熟社会のたそがれていく側面」に

(自分の老いも含め)向かい合い、楽しみながら

「参加したいと思えたもの」には遠慮なく、加わっていけそうです。

また、アフィリなしのAmazonリンク張っておきます。

2014_04_09_hitoyasumi

弱さの思想 たそがれを抱きしめる

高橋 源一郎、辻 信一 著

大月書店刊 ¥1,728

「生きる」のパラダイム・シフト、始まってる? ~前編~

いやあ、久々に、自分がこれまで断片的に感じてきたことが

スパンスパンとつながって、「ああ、やっぱり、よかったぁ~」と

しみじみする結果が生まれました。

過去、スピを中心とする宗教的な思想を追っかけてたときにも一度、

世界観みたいなものがそういうつながり方をして

「お、これは面白い!」と思えたのですが。

 
今回、そのヒントをこんもり与えてくれたのが、

『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』という書籍でした。

著者はお2人。

小説家で文学者で文芸評論家でもある高橋源一郎さんと、

評論家で文化人類学者で環境運動家の、辻信一さん

(肩書きはともにウィキペディアからいただきました)。

高橋さんは、まず20代初めのころに『ペンギン村に陽は落ちて』を

拝読し「なんだこの不思議な人は」と思い、そこから

他の作品も読んで「不思議な感性の作家さん(社会派の面もあるのに)」

と思えた方。その後、小説のほうは寡作になられて

作品にお目にかかる機会が減っていたのだけれど、

震災後に始めたTwitterで再び「@takagengen」、高橋源一郎さんを見つけて。

おおっ、とありがたく読んでいたら、

2011年5月17日に、震災と原発問題にまつわる連続ツイートがありました。

「みんな だいじょうぶかい?」

という一文から始まるその呼びかけは、

「さあ、頑張ろう。どこかに「出口」はあるんだから」

というふうに、やわらかく続いていきます。

私たちが陥った状況についての説明のわかりやすさと、

その言葉の温かさに、

うん、なんの力もない一般市民の

(しかもいったんは激弱になった)私でも、

できることあるかな……あるかもな……

と、スッと、落ち着いて、素直に思うことができて。

改めて、小説家の扱う言葉の力と、

高橋さんご自身の懐の温かさを「すごい」と感じたのでした。

この連続ツイートは残念ながらまとめられていないので、

気になる方は上記リンクから2011年5月17日までたどってください。

一方の辻さんは、私、仕事の関係で一時期、ご著書や対談会などを

一気に熟読・拝聴する機会があって。

そのときは主に環境分野だったのですが、それこそたくさん、

環境系の知識や情報、考え方を学ばせていただけて

気持ち的には「その節、勝手ながらたいへん助けていただいた方」という感じ。

ちょうど「キャンドル・ナイト」の呼びかけなどもなされ

エコロジーが盛り上がり始めた時期でもありました。

それでもって辻さんに対してもやはり、「不思議なご経歴と活動を

なさっている、自由な感じの方」という印象があり……。

どちらもいい意味での、ワクワクで温かい、

ステキな「不思議」感なわけですが(現在、お二人ともに

明治学院大学の教授でもあられて……、いいなあ、明学)、

そのステキな「不思議さん×不思議さん」が、

人間の「弱さ」について対談してる書籍、と言われたらですよ、

そりゃもう、あなた! 

一般的な「社会的弱者・擁護論」であるはずがない。

てなことで、いそいそと、その本も現地で買えるという

「発刊記念対談」、トークイベントの会場へと、足を運んだのでした。

……どうしてもいろいろ語りたくて(笑)長くなったので、

本の魅力と社会のステキな展望については次へつづく。