不思議なこととか、神秘的なこととか

メインブログにも書いたことがあるけれど、

私は、自分が「死ねなく」なったあと、「なぜ生きていいのか」を

知るために、宗教、心理、哲学、その他社会的なこと、歴史も含め、

情報を探し求めた時期がありました。

「生きてちゃいけない」という思いのピーク時で、

本気で死に方を迷って、怖くて。

でも生きていていいと思えず、どうすればいいのかと

ひたすらおびえていたときに……友人が急逝し。

その衝撃でしばらくは死ねないな、と思っていたら知人が自死し。

これでもう、自死はやっぱり無理じゃないか、と

思って、回復も視野に入れて生き始めたら、別の知人が連鎖で自死した。

どうしよう、と思っている2年半の間に、自分がこんな

「死ねなくなるようなこと」を(まあ、そういう方向へ

私がわざわざ受け止めた、という説もあるが)

3回も経験するなんて、何の意味があるんだ? と思ったのです。

で、死んだあとに何があるのかも本気で知りたくて、

世界3大宗教の本や講話、さらにより原始的な宗教の話や

伝記なども読み漁り、三輪明宏さん、江原啓之さんなどをきっかけに

海外のスピリチュアルな本も読み……。

他にも、心理学、医学的見地からの死、哲学的な生、

医学家や宗教者の語る臨死体験、宇宙や生命の成り立ち、

次元、空間、時間の理論等々。

気になるものは、片っ端から探しては読んだ。

生とは何なのか、死とは何なのか。

その答えは、結局、見つかったわけではないです。

でも、なんかね、感覚的に。

人智を超えているものは、ありそうに思えた次第。

私の身体は、昔、星だったもの(そこに含まれていた成分)から

主に成り立っていて、

その星が「寿命を迎えて爆発」してくれたからこそ、

地球にまで届いて、今現在、私の身体の一部になっている。

星の寿命? 生命体でなくても、私たちはそういうふうに、

ものごとを捉えている。そういう仕組みを持っている。

寿命が来たら活動をやめる(姿を変える、つまり変化する)、

という「ルール」を当てはめることができるのは、

生命体に限らない。変化はずっと、今も起こり続けている。

そしてこの生命体、と呼ばれる地球上の生物って、

小さな惑星、地球の「おもに地表上」にいる(海も含め、

星の内部、ではないという意味で)。

で、人間が住む陸地に絞って考えてみると、

「海の底でない地表」って、

地球の表面積のうち、30%しかなくて。

その30%のうち、山脈や森林や砂漠など

命にとって過酷な条件の地域も除いた、

さらに少ない面積の土地に、私たちは住んでいて。

上に伸びるといっても、建物ってせいぜい、

今のところのデータでは1,000m程度が限界っぽいし

(耐震構造上の関係らしい)、

飛行機だって最高13,000mの上空を行きかってるだけ。

宇宙のサイズ、規模から考えれば本当に、

どこにしがみついているのか、っていう存在。

そんな小さい範囲で、一緒に生きてるのに、

より強いだのよりエライだの、こっちのほうが正しいだの、

そんなことを証明するためだけに、小規模、大規模、それぞれに

ののしりあったり、殺しあったり……。

しょうもないケンカをそれこそ、何百年も繰り返してて。

「人間という生命体」、その視点で見たとき、

それって本当のところ、どうなのよ、と。

権利とか云々、言い張って、他者を平気で傷つけられるのって何?

じゃあそもそも、あなたが自分で、

自分や他人の命の仕組みとか、身体を作ったの? って

思えたりするのです……。

で、さらに。

なのに確かに、私はここで、今、呼吸している。

これって何なのだろう、って思うと「もうわからんよ」となる。

そんな簡単にわかるようには、できてないのじゃないかと。

科学で証明されうることだって、まだまだ限界いっぱいあるし。

この「もうわからんよ」っていうのって、

人智を超えてる、ってことでもあると思う。

さて。

怪しい部分にも触れていきますよ。

親子や兄弟・姉妹などの間で、互いの身に異変が起きたとき、

遠く離れていても、それを感じ取ることが「実際に」あるという。

双子のどちらか片方が怪我をしたとき、離れていたもう1人も

同じ箇所に痛みを感じた、とか。

これは世界的にも研究されていて、日本でも東大だったかな、

子どものころから双子の成長記録を本気で追いかけてます。

これはまあ、ね、人と人とのつながりなんだから、

よくわからないなりに「ありうる」程度で

済ませられる、と思える人もいるでしょう。

では次。

私が中学生のとき、ある友人から、

その子のおばあちゃんの話を聞きました。

すごくインパクトある話だったから、覚えてるんですよ。

中1のときのことです。

このおばあちゃんは、友人いわく、すこぶる「勘のいい人」らしい。

ウチのおばあちゃんね、この前、外へ買い物に行ってたの。

そうしたら途中、なんかすごい「いやな感じ」がして、

急に、家のことが気になったから、

買い物を切り上げて家に帰ったんだって。

そうしたらなんと! おばあちゃんの家に、

泥棒が入ってたのよ!!

その泥棒がつかまったのか、逃げたあとだったのかは、

定かではありません(確か、入って去ったあとに

おばあちゃんは帰宅した、かもだが、すみません、忘れた)。

そして孫であるその友人は「ウチのおばあちゃん、すごいよね」で

終わってましたが。

さあ、これはいったい、何なんでしょ? って話。

第六巻? 家が、何かをおばあちゃんに知らせた?

でも家って、生命体でもないのに?

それとも家のなかの「何か?」 何かって何?

えーと、おばあちゃんの結界範囲、とか?

はい? そもそもじゃあ結界って? 

……正解なんて、わからないよね、これ。

宗教的な話で「説明をつけようとしたら」

よく使われそうな何かの言葉で(それこそ結界とか)、

なんとなくつくかもしれないけど。

「そんなの嘘だよ」って言葉で、片付けるのも簡単。

でも孫に「わざわざ」そういう嘘を言うおばあちゃん?

わりと仲もよさそうだったのに?

つまりは、そう、わからない。

で、自分がわからないからって「それは嘘」とも言い切れないのです。

全部、嘘とは限らないのでは、と。

別に、超能力者が全部本物だとか、霊魂は本当にいる、とか、

そういう過激で端的なことを言ってるわけではありません。

でも、ない、とも「絶対」には証明できないもの、でしょう?

それを嘘、と言い切るのって、実は「信じたくないだけ」かも。

なぜなら、わからないものは、怖いから。

わからないものは、当てにはならないから。

場合によっては、それがもし本当なら、

自分にはないので「うらやましい」、あるいは「悔しい」から。

心の奥では、そういうことかもしれないんですよ。

ゆえに、「認めたくないという拒否」が働く、と。

で、最初の話に戻ります。

私に実際、起こった、3回の、

(あえてこういう表現をしますよ)タイミングが合った、他者の死。

そのそれぞれに、私にとってのみタイミングが合った「偶然」3回が、

たまたま私に対し続いた、ってことでしょうか?

私には「もはやわからない」のです。

ただ「偶然かどうかわからない」という程度には、

自分なりに「謙虚」である、とは思えています。

自分に目立った「能力的なもの」(超能力とか、霊が見えるとか)が

備わっていないからといって、

私の経験は単なる偶然である! とか

他人のそれらを「完璧にイカサマ!」と断言できるほど、

私は、確たる証拠を持っているわけではないのです。

人智を超えた形で今、自分がすでに存在している以上

(私は自分の命を自分で『作って』はいませんし、

成長の仕組みづくりにも『関わって』いないのですから)、

そういうものが「そういうふうに見える、現れる、表せる」人が

いないとも限らない。いても、おかしくはない。

ただ、私がわからないだけで。

私に起こったことも、なんらかの意味があるのかも、と。

はい。ですので、単純に信じる、信じない、ではなく、

可能性としての話で言えば。

そういう人はいる、また自分にさえ起こる「可能性がある」、ということを

私は、否定できません。

それを「じゃあ信じるのね」と言われれば

「否定できないという私の言葉を、

あなたはそう受け止めるのですね」ってことですし、

「信じてないの?」と言われれば

「自分では証明もできないので、わからない」となります。

ま、感覚的には、

人智を超えて届く・その他、の「何か」があったほうが、

しかも「心が温かくなる方面」のものならなおさら、

あったほうがいいよね、うれしいよね、というところです。

なので、もしあった場合には、私は気づけないんだけど

相手にちゃんと届くかもしれないので!

私はとくに、心が温まる方面の気持ちについては、

ちゃんと丁寧に「こめる」ことにしたい、と思えています。

対人にせよ、モノを相手にするにせよ。

もしかして、いつか「何か」が泥棒を知らせてくれたら、

それだけでもちょっと助かるかも? などと

楽しく想像できたりもしているのです(≡^∇^≡)

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