自分たちだけが日本のことをちゃんと考えていると
思っておられるかのような方たちが、なぜか選挙への参加権利がなくても
日本のあちらこちらの選挙に応じ、息巻いておられるように感じます。
そして、それ以外の思想の方をあっさり、売国奴と言っておられたりもする。
人殺しの道具を揃えることは
いざとなったら他人を殺してもいいのだ、
なぜなら自分たちが正しいから、と
今、「すでに」主張され、武装されている人たちの考えを
肯定することになります。
そう考えて、自分たちが正しいから
相手を殺してもいいのだ、
相手のほうが間違いで殺してもいい人間なのだ、
と捉えている人たちが世界の中に「すでに」いる。
だから、それならこっちも殺していいのだ、と考えるのは
まるで「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
と言っているかのように、私には思えます。
過去にはそれが、土地と資源の奪い合い、において正当化されました。
もっと昔は、宗教の違い、で正当化されました。
そしてたくさんの命が奪われたあとにようやく、戦いをやめました。
主張の内容の吟味云々ではなく、命を奪う暴力の強さ、
より多く殺し合いに勝ったほうの理論が正当とされる。
その繰り返しが起きてきたのです。
なぜ、原子爆弾を落とされまでした経験のある、
日本という国に生まれた私たちが、
自分側の理由で、相手の人を殺すことを正当化できると言えるのか、
私にはどうしても理解できないのです。
私たちの先祖が、未来のさらなる殺し合いの発展のために、
命を投げ出したわけではなかったと思えるから。
その当時の方々は「今はこのような形になったために仕方なく」
自分たちの家族、子ども、子孫の未来の命のために、
戦場で自分たちの命を懸けてくれたはずだと、
私には、思えるから。
その未来の立場である私たちの命を、将来、少なくとも近い将来なら
積極的に武器を携え他国へ出かけていくなどによって
粗末に扱っていくことになっても、いいのでしょうか。
自分たちがこの先、自己の理由により人を殺していい、と考えるならば、
相手もまた、私たちを殺していいと考えたとしても、
それは違う、とは100%主張できなくなる。
なぜなら正しさ、は、人によって違うから。
相手と同じ土俵に上がることは、結局、皆で一緒に
『命を奪い合う』という同じ罠の穴に落ち込んでしまうことだと、
私には思えています。
人が人を殺すのに、絶対的に正しい理由など、ありません。
相対的、でしかないのです。とくに国という大きさにまで
人をひとまとめにしてしまうなら、なおさら。
一人ひとりの命は、この世に一つしかなく、
消えてしまったら、二度と戻りません。
それが「絶対的真実」であり、それを自分の都合で消すこと、
その点が、間違いなのです。
その間違いを訴えられる、一番の根拠を持っているのが、
日本の各地で空爆を受け、他国軍に上陸され、
原子爆弾の悲惨さまで経験してしまった、
私たちなのではないでしょうか。
だからこそ、マンデラ氏がおっしゃっていたように、
私は、憎むことを学んだように、愛することをも学びたい。
そうした積極的な平和、積極的な融和、
違いがあっても『憎まないですむための双方向の努力』、
そういう形での平和を訴え、求めていきたい。
相手もまた、ひとりの、たったひとつの命を持った人間なのだから。
それがお互い、それぞれに、集まっているだけなのだから。
日本という国に生まれた私たちなら、
「和」の大切さを知っている私たちなら、
きっとそれを、中心となって発信していける……と思う、
この確かに私のなかにある信頼の気持ちは、
果たして右向きなのでしょうか、左向きなのでしょうか?
右、左、という枠が、必要な気持ちなのでしょうか?
私は、過去の先人たちの苦しみの経験を、
未来の子孫が心から安心できる笑顔になるための、
そこへつなげられるための学びとして、
平和を作り出すための学びの道として、
生かしていきたいと、改めて思えます。
武器は、他人の命を奪うための道具でしかない。
それを持ちたいと願う、今の一部の権力者が望む「土俵」は、
結局のところ自分と周囲の命だけしか大切ではない、
他はどうでもいい、というような「さらなる自己都合の土俵」につながるかもしれない。
そんな危険性を大いに含んだ、今の、ひとつの選択肢としての土俵には、
そもそも私は乗りたくない。
今、話されている武力を持つという土俵、
そこに乗ることを、私はひとりの日本人として、選びません。