(※追記あり)情報としての、話

最近拾ってきた「方向性」の情報で、

んあ? と「疑問に思ったこと」いろいろ。

その方向とは違うところへ進んでいくために、

今、何ができるか、を考える。

そのためにこうした情報を自分で整理し、

お知らせもしてみます。

話を始める前にお伝えしておくと、私は

民族や国籍などに関係なく「命」は大切だと思う者、

平和を「愛する」この国を、愛して誇りに思っている者、

そしてあらゆる生命は「自然から賜った貴重な贈り物」

だと捉える者、です。

この自然、という枠は、人の命だけでなく

地球のすべての命や、石や岩や水、気体、太陽や星々などまで含みます。

私には一切、それらの仕組みを作れません。

ゆえにありがたく、自分のために、自然と太陽の恵みや、

月や星座からの慰めや、他の生命体の「命」を毎日、いただいています。

ええ、植物も含め。

そういうスタンスからの情報提供として、お読みください。

まず、TPP。

メリットよりもデメリットのほうが多いな、と感じていますが

最近、驚いたのが以下3つ(これらの情報ソースは

いろいろ探しにいったんだけど、

日本語で書いてあるのがまだ少なくて……残念)。

米国企業から言いがかりのような形で他国企業が訴訟を起こされ、

しかもそれは米国内で審議されるため「米国側が必ず勝ち」になって、

負けた企業のほうは巨額の補償費用を払わされるという、

そのルール自体が一緒に入ってくる、らしい。

さらに次の2つも。

ひとつめ、遺伝子組み換え食材。なんとなんと、輸入の際に、

「組み換えなし」という表示が「された」ものを扱うことは、

TPPのルールで、逆に違反になってしまうらしく。

で、さらにBSE検査がまったく済んでいない牛肉も入ってくるそう。

狂牛病にかかっている牛の肉かどうか、

ロシアンルーレット化するの? じゃあ。

レストランとか、どうするんだろう、どうなるんだろう。

この関連の情報を追っかけていってさらに笑えた情報。

その遺伝子組み換え植物の「種子」を扱って

世界中でボロ儲けしている巨大企業、

米・モンサント社の社員食堂って、

遺伝子組み換え食材を一切、取り入れていないんだって!

さあ、なぜでしょうね?

日本のメーカーの、某パン製造会社の社長も、

自社のパンは絶対に食べないって噂、ありましたよね(笑)

次、防衛系行きます。

武器の輸出、部品の輸入で、今度は

EU&アメリカ&アラブ&アジアまで交え、

グローバルな「武器ムラ」の仕組みができつつあり、

実際に稼動も始めたいようです。

最近、海外へ行ってきている我が国の首相は、その外遊で

武器製造LOVE(ウチ、製造して売りたいよ!)の

日本の重工業系メーカー関係者をぞろぞろ引き連れ、

彼らとともに「国際的な安全に積極的に取り組みます」って、

各国を回っておられるみたいです。

「原子力ムラ」で資金稼ぐの、限界見えてきちゃったからね。

とはいえ「再生処理」「高速炉」は手放す気がない、

プルトニウム持ってないと、イヤだから。

その代償のひとつが、現在まさに、海外で働いている

国際ボランティア等の「命の危険性」(憲法の解釈を

変えるだけでも、もう、逆に命を狙われる危険性が

グッと上がるらしいですよ。実質、九条の放棄だということで

他国から、日本への不信感が高まって)と、あと少なくとも

自衛隊の若い隊員たちの「命の危険性」だそうですが。

アジアへ「お節介仲裁」しに行くと、結局は牛耳れると思ってるから

仲裁しに行きたいだけ、なんじゃないの? アジア版・米国の真似。

そのために少なくとも海外ボランティアや若者の命、

使いたい放題ってか?(少なくとも、と、何度も

わざわざ注釈をつける理由、おわかりですよね。

解釈変更「し過ぎて」他国に「強く」貢献することで、

国際的な過激派が「日本は危険」と解釈したら?

テロ? 誘拐や拉致? さて他には? しかもどこでそれを?)

アメリカ人が日本人の命を守ってくれてるのに、

日本は何もしないのか、って?

うん、じゃあ日本の領海内、または海外でも、

相手が「先に」攻撃してきたときだけ、とか、

そういう「他国から誤解の起きようもない」確実な限定条件、

せめてつければいいんじゃないの?

そんな方向性、調べても非自民の小さいところ以外

ほとんど出てこないんですけど、現状で。

それに米国が、日本での軍事系を手放すと本気で考えるのかな?

巨額のお金、払ってるんでしょう?

すでに巨額のお金を「投資してきて」

何十年も、米国に「守ってもらう」体制を作ってきた、

じゃあ、自国防衛という形で今回、それまでの金を

どんどんドブに捨て始めて(実はその陰でずっと、

米国から多額の資金提供を個人的に受け取りまくった政治家も、

多数存在してきた「らしい」のに……って

これ、あくまで隠してるそうで

ここ数年、アメリカ側の資料公開によって

それがバレつつあるんだそうですね~)、

かつ、今後は米国からあんまり(ってどの程度なんだろう)

守ってもらわなくてもいいようにする?

いや、もうすでに、裏の関係がズブズブすぎるから、

そんな簡単に縁を切れるはずもなく、

そこを無理やり縁切ったら、それこそいろいろ孤立しますよ、

経済面とか食料とか意地悪されるかもですよ、今の段階ではまだ。

本当にそもそも、ですよ、これだけ今までお金を出してきた国を、

米国があきらめると思う?

敗戦国という扱い、いまだに言われてしまうわけですよ?

実際「第二次世界大戦の陰影」が残っているから、

チベットやウイグルが国際的に「あのまま」にされている。

だってあそこは隣の国の「自治区」だから。

ウチでは、自国内で血を混ぜることを選びます、以上。

「内政不干渉」は、英国やフランスや米国が、自分たちも

突っ込まれたらめちゃくちゃ困るから(覚えてますか~?

フォークランド紛争なんて1982年、結構、最近の話なんですよ~)、

国際的には何も、言われていない。

いまだに、そうなのです、まだ。残念ながら。

で、日本に攻めてくるのって、

もうウイグル並みの危険度があるの?

内政不干渉、と世界中で認識されるほど、

日本は現在、国際的には隣の大国の「自治区」扱いなわけ?

お隣って、挑発してきては「攻撃されるの」待ってるわけでしょ、

本気で相手と同じ発想レベルまで落ちて、それに乗るの?

これは個人的予想ですが、始めたらたぶん延々、

嫌がらせなゲリラ戦、展開されますよ? はい、テロ中心でね。

いったん始めてしまったら、止まりませんよ、そのテロ。

かつ他国の過激派も、儲かりたいから絡んでくるだろうし。

だって、お隣の政治・軍事的仕組みは今のところ、

個人の、家族や親族の命や生活を丸ごと人質にしてから、

その個人を部下にして、命令出せるんですよ?

それで、日本は「勝つ」ところまで、たどり着けるのかなあ? 本当に。

……ま、こういうこと書くと、

非国民、とか言われるんだろうなあ(笑)

別に米国LOVEでもアジアLOVEでもないんだけど。

国としては日本LOVEなんだけど。

「堂々と主張する」、その方向性が違うと思うだけ……。

あと、福島県の子どもの甲状腺がん、発表になりましたね。

甲状腺がんと診断が確定した子ども50人、疑いありは39人。

国立がん研究センターなどの統計では、これまで

10代の甲状腺がん発症率って、

100万人に1~9人程度(バラつき多いな)とされてきたそうなのに。

福島県では、37万人を対象に検査してきて、

今のところ、29万人のデータがまとめられ、その結果が50人。

残りの人は不明なわけだから、まあ、今は37万人として

単純に2.7倍してみましょうか。それでも

100万人のうち135人くらい、になってますけど?

え? 100万人に1~9人程度、だったはずなのに?

しかも3年過ぎた段階で、もう?

チェルノブイリでは4~5年後から甲状腺がんの

発症率が急増したそうですよ……?

でも「直接的な健康被害は出ていない」って

この前も、田植えされてましたよね。

まあ、因果関係は「証明されない」わけですがね、

まだ、というか、果たしてこの先……。

ある一人の、かけがえのない大切な子どもの命に対する

「苦しみ」が、ひとつの県だけで、もう

50軒分、50家族の分、すでに発生している。

これから一生、ずっと怖いであろう、その苦しみが。

でもって福島第1原発の、3号機の格納容器、

破損していたらしいですね。

格納容器の破損は、とてもとてもヤバイ! と言われてたはずなのに。

このままでは地下水、汚染されちゃいますね、さらに。

地下土壌だけでなく、海へも流れていきますね。

今、汲み出してる(そして機械が壊れたりしてる)汚染水、

それどころじゃない、比較にならないくらい

高い濃度の水が流出するかも、と、恐れられているのですが?

人が絶対に入れない格納容器の外側の部分、

どうやって調べて、どう防いでいけるのでしょう?

コントロール、確か、完璧なんですよね?

……キツイ現実。

ねえ、これらの「舵取り」の責任、誰が引き受けられるの?

どこの誰が代償、払うの? しかも命で、ってこと?

自然まで含め全部、だよ?

これも張っておこうかな。NHKが残してくれている動画記事。

「人の価値は、何を言うかでなく、何をするかで決まる」

1992年、12歳のとき、

どうかあななたち大人が、私たち子どもの手本になってください、と

リオの国連会議で訴えたセヴァン・スズキさん。

もしよかったら下記の、あのときの彼女の発言も聞いて欲しい。

軍備より先に、お金を使ってやること、あるんじゃない? やっぱり。

http://cgi4.nhk.or.jp/eco-channel/jp/movie/play.cgi?did=D0013770650_00000

てなことで、どうしても原子力関連事業は放棄したくなくて

しかも軍事系も始めて、国民(と他国の人間や地球の自然)の

命よりはずっと、個人でも党でも企業でも、

儲けるほうが大切な「方々」に向け(ある一党の方々だけを

指しているのはございませんことよ、それではこと足りない)、最後に。

「広告批評」で昔、掲載されたというこのグラビアを

お贈りしたいと思います。これ実行してくださるなら、

もはや「個人的信念」の違い、になるから、

私もまだ、検討の余地、できますよ~♪

ある個人の方のブログ記事なんですが、

天野さん×浅葉さん×糸井さんでつくったらしい

このポスター、私、好きです(笑)

命のレベルで、大好き♪

◎不定点日常観察日記

http://adukot.exblog.jp/18278549/

そこに「英雄的」自己満足は入っていないか

「美味しんぼ」の、福島の鼻血問題に関する内容が話題を呼んでいて、

それについて賛否の意見がいろいろ出されている。

私は、「美味しんぼ」の内容そのものが

嘘だとか本当だとか『判断できる』立場にはない。

公的に是非を言える専門家でも何でもないから。

でもその表現方法について、一個人として意義と異議、

両方を唱えたいと思う。別にマスコミに関わっていたからではなく、

自分が「気持ち悪い」ので、書くことで整理しておきたいのだ。

長くなるけれどお付き合いよろしくです。

私が読んでいて、現在、自分の気持ちにいちばん近いな、と思うのが

The Huffington Post Japan というジャーナルサイトに掲載された

映画監督・舩橋 淳さんの意見。まずそれを挙げておく。

◎HuffPostJapan 2014年05月13日 舩橋 淳

「美味しんぼ」の鼻血問題:敵を見誤ってはいけない

http://huff.to/1jUxHh8

モバイル系で、上記記事がうまく表示できない方はこちらからどうぞ

http://m.huffpost.com/jp/entry/5313031/

今回の記事に関わらず「美味しんぼ」はときどき、

現地取材の「生情報」を加えたストーリーを展開する。

上記で監督もおっしゃっているように、

それは「ドキュメンタリー」と呼ばれる一種の「報道」、

ジャーナリズムであろう。

そして今回のように、現地に関する情報の提供、

およびそれによる問題提起、という

ドキュメンタリー形式を、とるのであれば。

「大勢の人が」という前町長の発言を

そのまま掲載するのではなく、その「大勢」についての

情報も明確にすべきではないのだろうか。

鼻血問題が起きた、その次の回の連載では、こんな記述もある。

「大阪で、受け入れたガレキを処理する焼却場の近くに住む

住民1000人ほどを対象に、お母さんたちが調査したところ、

放射線だけの影響と断定はできませんが、

眼や呼吸器系の症状が出ています」

「鼻血、眼、のどや皮膚などに、不快な症状を訴える人が

約800人もあったのです」

ある医師の言葉。これはまだマシだった、数値があっただけ。

大阪は抗議文を発表した、そして雁屋氏に実際、

取材を受けたその医師の方は、

さらに中日新聞の取材で「マンガの記載は事実」と

おっしゃっている。つまり問題提議、である。

さあ、では「事実」はどうなのか。

追跡調査せざるを得なくなっていくと思われる。

◎つなごう医療 中日メディカルサイト

「美味しんぼ」登場の医師「すべて事実。抗議は被災者に失礼」

http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20140513073049244

ただし、ここに載っているのはガレキの話ではなく、

福島県在住の方たちの、体調不良の話。

中日新聞が、ガレキの話を避けたのかもしれない。

私は「個人的に」は、国が隠蔽していることがたくさんある、

と、はっきり疑っている。

だからここからはあくまで自分だけの感覚で言えば、になるが

「美味しんぼ」の内容が風評被害であるとは、実は思っていない。

前町長がマンガ内で主張されている

「福島県は住める場所ではなくなった」という発言は、

誠に申し訳ないが、全地域でないにせよ、

ある一定の真実は突いていると思える。

だって除染したところで、山から汚染水は流れてきているから。

山の木が当時から、そして今後も汚染されつつあり、

その葉が毎年、落葉し、土に還っている。

除染が済んだ地面で、その後またすぐに

汚染が見つかっている場所があるというのも、それゆえに、事実だと思う。

汚染の程度が地域によって違うとはいえ、

汚染は「確かに」されていて、その水をせめて「海になるべく流入させない」、

そこに除染作業の意味はある、と、作業に当たる人が

おっしゃっている様子も描かれていて、そうなのだろうと思う。

そして除染作業に従事する方が、だんだん、

疲労感が抜けにくくなる、という描写もあった。

うん、確かに、それは「延々と続く作業に気落ち」するせい、

だけでないかもしれない。そういう影響が出る人「も」、

いるかもしれない、と、私には思える。

福島原発の爆発前、東京電力が圧力を抜くためのベントを開け、

「爆破前すでに」大量の放射性物質が「一気に」放出され、

そのとき、付近の地域の放射線量がかなり高くなったことも、

当時の報道で、すでに情報が流れていた。

マンガにはない話だが、さらに言えば東京電力の故・吉田所長が、

当時、東電上層部の指示を無視して海水を流入させなければ、

もっとひどい事態になっていたであろう、ということも、

複数の科学者が述べているから、事実なのだろうと思える。

それでも、なお。そう、なお、である。

現段階では、悲しいかな、すべて「原因が特定」できない話なのだ。

であれば、今回の「マンガ」という、広く手軽に読まれる手法で

「大勢」と発言するのなら、その根拠を

推測であったとしても、もっと示すべきたっだと思う。

最初に挙げた記事の映画監督は以前、

福島のドキュメンタリー映画を製作された際、

体毛や髪が抜ける方、に、撮影中、出会われた。

そこで「それをそのまま事実として」映像に撮られた。

そこ、なのだと思う。

監督はそのとき「他にもたくさんいるだろう」とは

おっしゃっていない。「これが今の福島の、

ある一人の方の現実である」と、その方の「姿」を、撮影されたのだ。

大勢、という言葉が「どれほどの憶測」を生むか。

100人をもって「大勢」と言っているのか。1000人? 5000人? 1万人?

福島県に住んでおられる「鼻血の出ていない方」が怒るのも、

その点だろうと。

「○○は、なんと△△△だった!」

という見出しをつけておきながら、記事内では「△△△か!?」と

推測レベルに貶める。駅スタンド売り系のタブロイド紙、

名前を例に出して悪いけれど『夕刊フジ』などがよくやる

「煽り(あおり)」の手法だ。

雁屋氏の今回の表現手法は、報道というよりこの「煽り」に近いと、

私には思える。そしてそれは、ドキュメンタリーではないように思うし、

ただ単純に「問題意識を高めて欲しかった」

「表現の自由」というのなら、無責任なやり方だと感じる。

とくに子どもや老人を中心とした『命』に関わる内容なのだ。

煽っていい話、なのか?

これについては以前、それこそ震災直後の福島県に入って

ボランティアを始められた「てんつくマン」こと、

軌保博光さんたちが当時、流されていた情報に対しても思った。

飯館村に震災5日後に入られたことは、当時、本気ですごいと思えた。

その際、放射線量を測るガイガーカウンターが

危険警告音を鳴らしっぱなしになり、

そのことを即、Twitterで流されたのだ。

リツイート(繰り返し)されまくる「危険! 逃げろ!」的な情報。

だがしかし、この「興奮した状態の声」を聞いて、

自分が今いる地域をガイガーカウンターで測ることもできない、

かつ、道路が寸断され、じゃあもしかしたら

非難する「場所そのもの」が汚染されているかもしれない、と

不安を抱き、救助も援助もまだまだの状態だった

東北のほかの地域の方たちは、あのときいったい、

どこへ逃げればよかったのだ?

飯館村の人たち、ガイガーで実際に測って、

「早く離れろ」とてんつくマンさんたちが直接、

住民の方たちに「声をかけた」ことは、すごくよかったのだと思う

(実際にはすでに大量の放射線のなかで過ごされたあとであったが

それでも、なお、一刻も早く、であったと思う)。

でもそれを皆がリツイートして、他の地域をも「煽る」状態になったとき、

現地の人たちは「いったい、どうしろと!?」という

怒りと不安に見舞われてしまわれたのではないだろうか。

強いて言えば当時さえ、皆で怒り、煽るべきは

「国の対応」について、だったのだと。

興奮状態で扇動しても、決して「よい結果」につながるとは

限らないのだと、私には思えるのである。

実際に体調不良になられており、国や自治体に対する怒りを

今、抱えておられる方からは、何様、と、言われかねない、

これがそういう意見であることは、私も承知している。

でも、命に関わる問題を、憶測でなおかつ、

煽りにもつがなうる手法で訴えるのは

やはり、私には「違う」と思える。

その「扇動的」手法に「してやったり」的な満足感は、

一切、含まれていないのだろうか?

人のため、という「英雄行為」的な満足感は、

長さで表せば「1mmたりとも」入っていないのだろうか?

「ドキュメンタリー」であるのならば、できれば舩橋 淳監督のように

「こういう事実が目の前にある」という、冷静で(ある意味、冷徹で)

客観的な問題提起の形であってほしいと。

そうした姿勢であられるな、と私が思えた記事を最後に2つ、

掲載しておく。マスコミ報道と、個人の方の記事である。

◎東京新聞、のちに中日新聞にも出た、記事の切り抜き。

2011年と少し古いけれど、6月16日(東京新聞)22日(中日新聞)。

画像は中日新聞版。

PCなら全面・拡大表示にすれば、最後まで読めるかと。

子どもの鼻血・・・放射線被害では?

→ http://c3plamo.slyip.com/blog/images/chuniti110622.gif

◎ブログ「カレイドスコープ」

個人ブロガーの方だが、思考が偏っているとはいえ

その指摘が冷静で的確な面も多く、ときどき頷かされる。

内容をまとめる力もお持ちで、よく勉強していらっしゃるな、という印象。

ゆえに今回、掲載してみる。2014年4月21日の記事。

途中と最後には煽りでイヤミな文章が少し入っているが、

せめてブログという手法の範囲でこの程度、にとどめてほしい……

という例示も兼ねてご紹介(あ、この方の出される情報に、

私がいつも全面賛成しているわけではないので

その点は誤解なきよう(^o^;)お願いします)。

「子供の甲状腺の検査はするな!」露骨さ増す国策の陰で

http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-2776.html

ふー。長くてすみません。熱くならないようにしなくちゃね、私も。

情報を「広く」探し、拾って、自分でいろいろ検討する力って、

これからますます、必要になるな……。

アドラーさんだったのか……

最近読んだオススメ本が着々と溜まっていく一方なので

とりあえず1冊、いちばん強烈なものからご紹介したいと思います。

私が、仏教・スピ・キリスト教・心理学・社会学・その他で

読んだ本のうち「これ、いい」と思ったもの、

他者から聞いたりしたなかで「うん、なるほど」と思えたもの、

そしてよくオススメさせていただいている、

カウンセラーの心屋仁之助さんや書道家の武田双雲さんが

おっしゃっていること……。

あとは啓発系のビジネス書なども含め、だったのですが、

それらに結構、共通していて、そこから感じて私が何度も書いている

「受け止め方を変えられるのは自分」

という言葉……。

その言葉の、たぶん「大元」さんであられたのが

心理学者、アルフレッド・アドラーさんでありました。

知っている方には、今ごろそれに気づいたのか! という突っ込みを

受けるかもしれませんが(笑)、

私「○○学派」等では区分してなくて、片っ端から乱読なのですよ。

たとえば河合隼雄先生や、下園壮太先生が「何学派」であるかは

別に知らなかった。基本、大きい本屋でざっと目を通して、

読みたいと思えたものを買っていたから。

そして、たまたま学派を知ったとしても、その先生の語り口、のほうが

ずっと大切だったので、学問的に追いかけることはしていなかったのです。

独学で心理学を学ぶのではなく、自分が生きやすい方法を模索してました。

で、今回の本はたまたま最初から「アドラー心理学」と紹介を

されていたので、ふーん、と思っただけでした。

が、しかし!

今まで本やブログ等で受け取ってきたものと共通項いっぱい、

私が言ってきた「かわいそうごっこ」も、言葉を変えて説明されてて。

んまあ! すごいわ、これ、わかりやすい! となったのです。

心屋センセも先日、この本についてブログを書かれていて、

それについては「なう」でご紹介もしましたが、

いや、この本、本当に著者たちががんばって、

内容てんこ盛りでしっかり書いていらっしゃいます。

たとえば、劣等感と「劣等コンプレックス」の違い。

劣等感は、実はよいものなのだけれど、コンプレックスになるとダメ。

「どうせ○○だから」という人は、必ずその裏で

「つまり私は○○がなければ、すごく素晴らしいんですよ!

本当はそのことを認めて!」と叫んでいる。

「優越コンプレックス」の人も、

「本当は劣等コンプレックス、私のなかにいっぱい」と

裏ではわかりやすく示している。

なのでそんなヤツに怒る必要なし。

そして、怒りという感情を自分が優位になりたいがために使い

他者と「勝ち負け」を展開し始めると、

必ず相手に復讐を持ちかけられる「戦い」になる。

その究極の形のひとつが「リストカット」にもなりうる、

つまり復讐で命をも賭けられてしまう……。

(この辺、簡単に要約しているため、そんなのじゃないもの! と

反発される方もいらっしゃるかと思いますが、そういう側面もある、

という示唆が載っている、という話です)。

過去の悪い出来事に縛られることを「選んでいる」のはあなた自身である。

たとえば昔からの病気を使って「ほら私、かわいそうでしょ」と

特別扱いを望む、そっちの捉え方を選んでいるのもあなたである

(だからいつまでたっても「あなた自身が自分で不幸を選び続ける」、

私が言う「かわいそうごっこ」もこれです)。

過去を「問題」として、または「原因」として、

それをあれこれ、うまくいかない理由や言い訳にしているのは

あなた本人の選択なのですよ、という話。

……むかつくよね、普通、こういう書き方されたら。

あるいは落ち込むかな。

でもね、それ、変えられます。

本の中では、思いっきり反発する青年と、

アドラー心理学にも通じている哲学者との対話形式が使われているので、

「その視点の変え方」もわかりやすく載っています。

ただ、それをする「勇気」だけは、あなたが選んでください、と。

あなたが自分で選ばない限り、あなたの「世界観」は変わりません、と。

他者への怒り、自分をうまく扱えない怒り、

自信のなさ(それはただの思いこみ、ではなぜそう思い込むのか)、

コントロールそのものから離れること、

怒りを「ずるく」使わない方法……etc.

論破されていく青年の姿に、自分がどこかの部分で、

必ず重なっていくと思います。

「うまくいかない」と思っているなら、

「表面上だけの優越感や満足感」に、うっすら、気づいているなら。

少しずつでいいので、最後まで一読する価値はあると思えますよ。

ちなみに私は今、じっくりしみじみ、読み直し中です。

そして再び、うなるばかり。

2014_05_07_hitoyasumi

◎嫌われる勇気 自己啓発の源流「​アドラー」の教え

岸見 一郎、古賀 史健 著
ダイヤモンド社 刊
¥1,620

不思議なこととか、神秘的なこととか

メインブログにも書いたことがあるけれど、

私は、自分が「死ねなく」なったあと、「なぜ生きていいのか」を

知るために、宗教、心理、哲学、その他社会的なこと、歴史も含め、

情報を探し求めた時期がありました。

「生きてちゃいけない」という思いのピーク時で、

本気で死に方を迷って、怖くて。

でも生きていていいと思えず、どうすればいいのかと

ひたすらおびえていたときに……友人が急逝し。

その衝撃でしばらくは死ねないな、と思っていたら知人が自死し。

これでもう、自死はやっぱり無理じゃないか、と

思って、回復も視野に入れて生き始めたら、別の知人が連鎖で自死した。

どうしよう、と思っている2年半の間に、自分がこんな

「死ねなくなるようなこと」を(まあ、そういう方向へ

私がわざわざ受け止めた、という説もあるが)

3回も経験するなんて、何の意味があるんだ? と思ったのです。

で、死んだあとに何があるのかも本気で知りたくて、

世界3大宗教の本や講話、さらにより原始的な宗教の話や

伝記なども読み漁り、三輪明宏さん、江原啓之さんなどをきっかけに

海外のスピリチュアルな本も読み……。

他にも、心理学、医学的見地からの死、哲学的な生、

医学家や宗教者の語る臨死体験、宇宙や生命の成り立ち、

次元、空間、時間の理論等々。

気になるものは、片っ端から探しては読んだ。

生とは何なのか、死とは何なのか。

その答えは、結局、見つかったわけではないです。

でも、なんかね、感覚的に。

人智を超えているものは、ありそうに思えた次第。

私の身体は、昔、星だったもの(そこに含まれていた成分)から

主に成り立っていて、

その星が「寿命を迎えて爆発」してくれたからこそ、

地球にまで届いて、今現在、私の身体の一部になっている。

星の寿命? 生命体でなくても、私たちはそういうふうに、

ものごとを捉えている。そういう仕組みを持っている。

寿命が来たら活動をやめる(姿を変える、つまり変化する)、

という「ルール」を当てはめることができるのは、

生命体に限らない。変化はずっと、今も起こり続けている。

そしてこの生命体、と呼ばれる地球上の生物って、

小さな惑星、地球の「おもに地表上」にいる(海も含め、

星の内部、ではないという意味で)。

で、人間が住む陸地に絞って考えてみると、

「海の底でない地表」って、

地球の表面積のうち、30%しかなくて。

その30%のうち、山脈や森林や砂漠など

命にとって過酷な条件の地域も除いた、

さらに少ない面積の土地に、私たちは住んでいて。

上に伸びるといっても、建物ってせいぜい、

今のところのデータでは1,000m程度が限界っぽいし

(耐震構造上の関係らしい)、

飛行機だって最高13,000mの上空を行きかってるだけ。

宇宙のサイズ、規模から考えれば本当に、

どこにしがみついているのか、っていう存在。

そんな小さい範囲で、一緒に生きてるのに、

より強いだのよりエライだの、こっちのほうが正しいだの、

そんなことを証明するためだけに、小規模、大規模、それぞれに

ののしりあったり、殺しあったり……。

しょうもないケンカをそれこそ、何百年も繰り返してて。

「人間という生命体」、その視点で見たとき、

それって本当のところ、どうなのよ、と。

権利とか云々、言い張って、他者を平気で傷つけられるのって何?

じゃあそもそも、あなたが自分で、

自分や他人の命の仕組みとか、身体を作ったの? って

思えたりするのです……。

で、さらに。

なのに確かに、私はここで、今、呼吸している。

これって何なのだろう、って思うと「もうわからんよ」となる。

そんな簡単にわかるようには、できてないのじゃないかと。

科学で証明されうることだって、まだまだ限界いっぱいあるし。

この「もうわからんよ」っていうのって、

人智を超えてる、ってことでもあると思う。

さて。

怪しい部分にも触れていきますよ。

親子や兄弟・姉妹などの間で、互いの身に異変が起きたとき、

遠く離れていても、それを感じ取ることが「実際に」あるという。

双子のどちらか片方が怪我をしたとき、離れていたもう1人も

同じ箇所に痛みを感じた、とか。

これは世界的にも研究されていて、日本でも東大だったかな、

子どものころから双子の成長記録を本気で追いかけてます。

これはまあ、ね、人と人とのつながりなんだから、

よくわからないなりに「ありうる」程度で

済ませられる、と思える人もいるでしょう。

では次。

私が中学生のとき、ある友人から、

その子のおばあちゃんの話を聞きました。

すごくインパクトある話だったから、覚えてるんですよ。

中1のときのことです。

このおばあちゃんは、友人いわく、すこぶる「勘のいい人」らしい。

ウチのおばあちゃんね、この前、外へ買い物に行ってたの。

そうしたら途中、なんかすごい「いやな感じ」がして、

急に、家のことが気になったから、

買い物を切り上げて家に帰ったんだって。

そうしたらなんと! おばあちゃんの家に、

泥棒が入ってたのよ!!

その泥棒がつかまったのか、逃げたあとだったのかは、

定かではありません(確か、入って去ったあとに

おばあちゃんは帰宅した、かもだが、すみません、忘れた)。

そして孫であるその友人は「ウチのおばあちゃん、すごいよね」で

終わってましたが。

さあ、これはいったい、何なんでしょ? って話。

第六巻? 家が、何かをおばあちゃんに知らせた?

でも家って、生命体でもないのに?

それとも家のなかの「何か?」 何かって何?

えーと、おばあちゃんの結界範囲、とか?

はい? そもそもじゃあ結界って? 

……正解なんて、わからないよね、これ。

宗教的な話で「説明をつけようとしたら」

よく使われそうな何かの言葉で(それこそ結界とか)、

なんとなくつくかもしれないけど。

「そんなの嘘だよ」って言葉で、片付けるのも簡単。

でも孫に「わざわざ」そういう嘘を言うおばあちゃん?

わりと仲もよさそうだったのに?

つまりは、そう、わからない。

で、自分がわからないからって「それは嘘」とも言い切れないのです。

全部、嘘とは限らないのでは、と。

別に、超能力者が全部本物だとか、霊魂は本当にいる、とか、

そういう過激で端的なことを言ってるわけではありません。

でも、ない、とも「絶対」には証明できないもの、でしょう?

それを嘘、と言い切るのって、実は「信じたくないだけ」かも。

なぜなら、わからないものは、怖いから。

わからないものは、当てにはならないから。

場合によっては、それがもし本当なら、

自分にはないので「うらやましい」、あるいは「悔しい」から。

心の奥では、そういうことかもしれないんですよ。

ゆえに、「認めたくないという拒否」が働く、と。

で、最初の話に戻ります。

私に実際、起こった、3回の、

(あえてこういう表現をしますよ)タイミングが合った、他者の死。

そのそれぞれに、私にとってのみタイミングが合った「偶然」3回が、

たまたま私に対し続いた、ってことでしょうか?

私には「もはやわからない」のです。

ただ「偶然かどうかわからない」という程度には、

自分なりに「謙虚」である、とは思えています。

自分に目立った「能力的なもの」(超能力とか、霊が見えるとか)が

備わっていないからといって、

私の経験は単なる偶然である! とか

他人のそれらを「完璧にイカサマ!」と断言できるほど、

私は、確たる証拠を持っているわけではないのです。

人智を超えた形で今、自分がすでに存在している以上

(私は自分の命を自分で『作って』はいませんし、

成長の仕組みづくりにも『関わって』いないのですから)、

そういうものが「そういうふうに見える、現れる、表せる」人が

いないとも限らない。いても、おかしくはない。

ただ、私がわからないだけで。

私に起こったことも、なんらかの意味があるのかも、と。

はい。ですので、単純に信じる、信じない、ではなく、

可能性としての話で言えば。

そういう人はいる、また自分にさえ起こる「可能性がある」、ということを

私は、否定できません。

それを「じゃあ信じるのね」と言われれば

「否定できないという私の言葉を、

あなたはそう受け止めるのですね」ってことですし、

「信じてないの?」と言われれば

「自分では証明もできないので、わからない」となります。

ま、感覚的には、

人智を超えて届く・その他、の「何か」があったほうが、

しかも「心が温かくなる方面」のものならなおさら、

あったほうがいいよね、うれしいよね、というところです。

なので、もしあった場合には、私は気づけないんだけど

相手にちゃんと届くかもしれないので!

私はとくに、心が温まる方面の気持ちについては、

ちゃんと丁寧に「こめる」ことにしたい、と思えています。

対人にせよ、モノを相手にするにせよ。

もしかして、いつか「何か」が泥棒を知らせてくれたら、

それだけでもちょっと助かるかも? などと

楽しく想像できたりもしているのです(≡^∇^≡)

「生きる」のパラダイム・シフト、始まってる? ~後編~

そして後編からいきなり「ですます調」をやめます、私。

すみません、以降はそれだと書きづらいので(;^_^A)

でも最後のほうには戻るかと(笑)。

辻さんは「スローライフ」を提唱されてきた方なので、

グローバル化する(そして弱肉強食・肥大・勝敗によってしか成長できない)

市場経済の限界などについても言及されているのは知っていたけれど、

弱さの「思想」って何を表しているんだろう、と思っていた。

お二人の、面白いわ興味深いわ(笑)なトークが進むうちに、

そうした競争原理主義社会の「今までの価値観」って、

本当にひっくり返されてきてるんだな、

しかもあくまでローカルに、世界中のあちこちで、ってことがわかった。

で、実際この書籍は、社会論や思想論だけでなく、

いろいろな方面で起こりつつある

そのあちこちの例をも、紹介しているのだ。

老人たちが原発反対運動を「楽しみ」つつ自然に支えあう過疎の村、

子どものホスピス、障がい者こそが中心で発展してきた街、

「居場所がなくなった人たち」がやってくるコミュニティ的組織など。

それらはすべて、市場経済の競争原理の世界には「いない」人たちで、

世間ではこれまで「弱者」扱いをされてきた人たち。

日本で言えば、中央集権で「切り捨てに遭ってきたミジメな」と

形容されている「はず」の人たちだ。

でもそこに、新しい「世界」が確かに生まれている。

それは本来、人間が「持っている良さ」のひとつ、

多様性(ダイバーシティ、diversity)にも基づくものであり、

しかも「最弱の者たちが影響を、周囲に自然に与えて、

他者の価値観をひっくり返す、それもいい意味で」

ということが起こっている、と。

まもなく亡くなることがわかっている「子どもホスピス」の

子どもたちに見つめられて、自身の生き様を振り返らずにいられない親。

親の落ち込みがいちばん心配、と優しく話す子どもたち。

そこは静かで明るい現場。生と死がつながっている場。

しかも、もっとすごいなと思えたのが

子どもが亡くなったあとの家族が「生き直す」ためにも、

その子どもホスピスは役立っているのだ。

そうした子どもたちや家族が集まれる、そこにいられることで、

自然に、グリーフ・ケア(悲しみを癒し、立ち直るケア)の

役目も果たしている。

今までの社会では「切り捨てられてきた」人たちが

お互いの居場所を作り合える。

「助けられる・世話になる」のが絶対に嫌なおじいちゃん、の話も出てきて、

でも「おじいちゃんのほうが助けてあげられる」部分があれば、

支え合って生きる場所が生まれ、うん、ただそれでいいのだ、という事実。

効率化の正反対であるとして、できるだけ排除されてきた多様性を

弱者の側が「よいもの」として扱い、情報もよい意味で開示する。

隠さず示すことで「いわゆる『強者の立場』の者」にさえ

影響を与えられるほど、

今まで忘れ、切り捨てられてきた「良さ」を、示すことができるのだと。

しかもそれは、人間存在の根源に関わっている、と。

ほかにも、性差の違い(私はこれ、個人にもともと内在している

男性性と女性性のバランス、にもつながる内容だと思える)、

フォース(外の力、どうしても奪い合い・示し合いになり上下が生まれる力)と

パワー(個人が内側にもともと秘めているそれぞれの力)の違い。

障がい者が中心にいることで、街のみんなが人間的な豊かさに恵まれ、

住みやすくもなり、ゆえにその国で「住みたい街」として認識されていったり。

しかも自発的に「そうなっていくがゆえに、延々と試行錯誤していく」ものは、

支配の有無や勝ち負け、効率、とはまったく別の「価値」を生み出すのだ。

先日、NHKの「News Web」でも「ソフトヤンキー」という造語が

紹介されていて、それは地元を離れない、

上下関係でも礼儀正しく、優しさもある、でもヤンキー(笑)な

若者たちを指すのだが、こういうあり方って、

まさに「(中央などで目立って)成功して勝者になるのがすべて」とか

「これだけが正しい、かつ強い権力、あとは負け」みたいな影には

おびえないでいられると思える。

そしてそれを、今までは「脱落」と呼んできたけれど、

じゃあ実際、本当の「勝者」、楽しくて幸せで気楽で、

夢中になれる子どもの遊び的な部分もゆるされていて、

変なプレッシャーも受けないで済むのはどっちだろう? と。

社会的な成功って、最終的にそういう楽しみを味わうために

「まずこの壁の乗り越えを達成すべき」みたいに言われてこなかったっけ?

でもさ、今まで言われてた「この壁」って、どこまで、あるいは必要なの、本当に?

私が「私のようなタイプは、鬱になって、結局よかったのかも」と

これまで捉えてきた部分が、見事に「社会に溶け込みつつ変えていく

新たなパワーのひとつ」として、多角度から紹介されているのだ。

くだらない縛りはないけれど、そこでは管理もされないから、

「何も考えずに済むように、支配されてるほうが気楽」

というタイプの人には向かないのかもしれない。

でもその姿勢って本当は、自分の「パワー」を放棄してて

かなりいいように「こき使われ、利用されて」ますけど

(今、支配しているはずの側だって結局、自分の損得と脱落には

常におびえ続けていかなくちゃならないしね)、

あなたは、ホントにそれ「が」いいの? って、

死に向き合う子どもから聞かれているのかも……。そんな気がする。

弱いままでも、あるいは弱いほうが、この先の未来、

新しく楽しめる「いい生き方」を見つけられるかもですよ、マジで。

そこを、個人でも探せる時代になってきている。

すでに価値観のパラダイム・シフト(paradigm shift、

認識、思想、価値観などの劇的変化)は確かにひそやかに、

起こり始めているようなのだ。

もちろん、問題はそれなりに個々の現場で起こるんだろうけれど、

実は多様性って、すごい話だけれど「解決しないで内包」できちゃう部分がある。

あなたはそう、私はこう。違いがあるのね、うん、そうか。

じゃ、関わらないでおこう。

それはちょっとさ、周囲も実は、迷惑こうむるんだけどね……。

でもまあ……とりあえずいいか、和解、今は無理そうだから。

以上。

それでOK、画一的な絶対的「正解」はいらない世界。

その代わり、性悪……というか「自分だけがよければ」の

価値観のままだと、やがて居場所がなくなると思う。

周囲から攻撃されて排除されるのではなく、

本人がその状態では「安心して居られなくなる」から。

そういう距離感、人とのつながり方を作り出していく練習も

多様性を基本前提として自分がふまえることにより、

無理なく自然に、積めるだろうと思う。そこは新しい捉え方になっていくから。

あ、これは、ある生協さんの組織と仕事をして、

ちょっと実感してたことです。

ホント、だんだん、居場所を「自分で勝手に」なくしちゃうのだ……。

ま、ほかにも、アートな世界の方が「お手伝いしに」行ったはずなのに

ダウン症児の感性に打ちのめされる、その組織の話、

なんていうのも載っている。

弱者であるがゆえの素晴らしい影響力。ステキで面白そうでしょう?

てなことで。

病、障がい、介護、老い、などに、仕事やプライベートで

関わる方、またはご本人、はもちろんのこと、

ホール(全体的)な視野の「業務」や「生きがい」に関わる方、

まさにそういう生き方の方、

教育、環境、社会、経済系の問題に関わる方、

子育て中の方、この先、老いを迎える方、老後をお過ごし中の方。

なんだか、それぞれに楽しそうな生き方が、実はまだまだあり、

しかもそれが勝手に他者への貢献にも「ときにつながっちゃう」

ようなことが、いい感じでこの先、ありえるのかも。

その可能性を、社会が、世界が、はらみ始めているという、

その新しい視野の話。

温かく優しくしなやかな「希望」の、

さまざまな例と可能性をたっぷり示してくれる1冊です。

新しい形の「ステキなあり方」、ぜひ読んで、受け止めてみてください。

私は読めて、ホントよかった……。高橋さんの告知ツイートに感謝しますm(_ _)m

おかげで私、この先ワクワクしながら「成熟社会のたそがれていく側面」に

(自分の老いも含め)向かい合い、楽しみながら

「参加したいと思えたもの」には遠慮なく、加わっていけそうです。

また、アフィリなしのAmazonリンク張っておきます。

2014_04_09_hitoyasumi

弱さの思想 たそがれを抱きしめる

高橋 源一郎、辻 信一 著

大月書店刊 ¥1,728