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正当性、とは  その2

日付越えの3本目でやっと、戦争放棄の話にたどり着きました。

すみません。もうしばらくお付き合いください。

 

戦争の放棄、という世界唯一の内容を持つ、日本国憲法。

これを決めるときに総理大臣だったのが

幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)氏であり、

彼が語ったとされる「戦争放棄への志」について、

フェイスブックではちょくちょく、解説や記事が出ていた。

 

マッカーサー元帥に、武力と戦争の放棄について提案したのは

幣原首相だったんだよー、とか、

それに関するご本人へのインタビューの情報なども出ていて、

でもその語ってる回顧の内容、怪しいんじゃないの? とか。

http://ow.ly/yXayU

 

ってなことで、私も気になっていろいろ情報を探し、

当時の記録がいちばん正確そうな

国会図書館のまとめを元に、経緯をたどってみた

(このリンク先については後述します)。

 

以下、ツイッターとFBでダラダラつぶやいた情報のまとめと追加をば。

 

まず、日本に完全降伏を要求する「ポツダム宣言」は、

主に米国が作成し、英国と中華民国との共同声明として、

1945年(昭和20年)7月26日に発表された。

 

日本側がこの宣言の受諾を拒否するのは、米国もわかっていての発表。

でも一説では、「これで米国としては原子爆弾の投下理由も正当化できるうえ、

ソ連まで参戦するし、日本を追い詰められる……」と

先読みされていた、と。(※1)

 

その後、実際の原爆投下、ソ連の参戦と北方領土への進攻。

これにより「ソ連を通じての和平」をもくろんでいた日本も

とうとうあきらめ、ポツダム宣言を受諾したのが8月14日。

 

でも米国側も、この宣言のなかに「天皇制の廃止」までは、

反発が大きすぎて逆に降伏しないだろうから、と盛り込まなかった。

そしてまた、ドイツは連合国が主体となって民主化させるけれど、

日本は自主的な民主化を進めろ、と。

 

これは連合国側が「もともと日本国民は、

民主主義的な傾向を持っている」と観ていたためらしい。

そんな見解は当時、すでにあったのね……。

 

(※1) ウィキペディア「ポツダム宣言」 http://ow.ly/zoaTc

 

では、再建を任された日本は、どんな国をつくっていくのか。

国内で、その模索がさまざまに始まり、案が出始める。

 

ポツダム宣言では「戦闘解除と武器の没収」が決められており、

実際に日本は、すべての攻撃力を差し押さえられた。

敗戦兵は疲弊し、国民も開放感はあるものの意気消沈していた。

 

そうした背景もあって、同年(1945年)12月8日の

「帝国議会衆議院 予算委員会」では、すでに

「ガンジー氏のような非暴力」について、

会議の参加者のひとり、中谷武世理事が説明している。

 

「即(すなわ)チ 民族トシテ 身ニ 寸鉄ヲ 帯ビテ居ラヌト 云フコトガ、

却(かえっ)テ 非常ナ強味トモナルト 考ヘラレルノデ アリマス」(※2)

 

このあと、さらに続いて中谷理事は

「力で他民族を支配するようなことが『ない国』をつくる」ことが、

敗戦兵の生きがいとなり英霊たちの鎮魂となる、と。

 

「唯一ノ 途(みち)ハ 茲(ここ)ニアルト 考ヘルノデアリマス」

 

「茲(ここ)」とは、

武装していない日本が先頭に立って、世界を非武装へ導く「心の力」。

これに対し、幣原総理も「深キ同感」と述べている。(※2)

 

ポツダム宣言をただ受け容れるのではなく、

それを自国の力に変え、世界へまた日本が「はばたく」ためにこそ、

武力放棄を使っていこうではないか、と。

受諾4ヵ月後のこの時点でもう、会議ではそんな発言もあり、

総理大臣が「その通り」と言っている。

これこそが世界をリードできる「新しい日本の力」になりうる、と

言っていたのだ。

 

こうして「戦争放棄&非武装」も会議では話されたが、

憲法改正のための「問題調査委員会」委員長、松本烝治国務大臣は

同会議で、自分がすでに念頭に置いていた

4項目(1.天皇の統治権総覧の堅持、2.議会議決権の拡充、

3.国務大臣の議会に対する責任の拡大、

4.人民の自由・権利の保護強化)を述べ、(※2)

実際にその線で改正案作成を進めていく。

 

しかも松本国務大臣は、

「防衛のための最小限の軍備は国際的にOKとされるのでは?

それに将来、国連へ復帰したら

義務を果たすのに、軍が要るようになるのでは?」

という考えの持ち主。

で、松本国務大臣は、年末からこうした憲法改正案を作り始めるのだが、

そのうち彼の考える主要4項目については

翌年(1946年)2月1日に毎日新聞がこれをすっぱ抜き、

特ダネとして掲載。(※3)

 

その新聞記事を読んだGHQ総司令官、マッカーサー元帥は、

大日本帝国憲法と大差のない内容にがっかりし、すぐさま

自身で改正ポイントを箇条書きした「マッカーサーノート」を作成。

このマッカーサーノートのなかに「武力・戦争放棄」が書かれていた。(※4)

 

そしてGHQ本部は8つのチームを作り、それぞれのポイントについて検討し

独自の「草案」を作り始めた。

 

そうとは知らず、松本国務大臣は2月8日、

自分たちの委員会でつくった憲法改正案を、

なぜか「閣議を経ずに」GHQへ提出。(※5)

これは権限で可能だったのか? と思うが、詳細は不明。

 

このなかで松本国務大臣は、最低限の自衛(個別自衛権)に必要な

軍隊と武力の保持を「憲法で維持」することを案として出している。

もし、閣議を経ていたら、その内容は「全面的な武力・戦争放棄」に変わったかな。

それとも、同じ項目が残ったかな?

 

いずれにせよ、首相と国務大臣に、武力についての意見の相違が

あったことが伺える話だと思える。

 

で、2月13日、日本側は改正案に対する返事をもらえると思ったら

いきなりGHQの草案を見せられ、提出した改正案は「拒否」される。

日本はこの事態で相当な衝撃を受けたことが記録されている。(※6)

 

その後、日本側は松本案についての交渉を重ねようとしたけれど

(そうそう、このときの通訳や翻訳の責任者が、かの「白州次郎」氏です。

ニュアンスとか、きっとたいへんだったことでしょう)、

GHQは「草案を元にするように」という返答しかもう返さない。

 

そこで日本側も改めて、草案を元に憲法改正案を作ることになった。

この間、交渉では日米双方でたくさんの書簡往復がなされ、

幣原首相とマッカーサー元帥の対談なども行われた。

この公式対談は2月21日となっているので、最初のほうで

紹介したリンクの「回想録」は、日付の記憶or記録間違いなのか、

あるいはそのあと24日に、非公式対談でも行われていたか……。

 

少なくとも首相個人は、武力放棄の方向で

マッカーサー元帥と話が一致したのでは、と想像できる。

 

こうして、GHQ草案を元にした日本国憲法改正案ができ、

3月6日午後5時に「憲法改正草案要綱」が国民に発表された。(※7)

 

これらの改正作業に、結果として関わらなかった形になってしまった

枢密院議員への説明は3月20日に行われ、

そこで幣原首相が第九条について述べた言葉。

 

「第九ハ 何処(いづこorどこ)ノ憲法ニモ 類例ハ ナイト思フ。

日本ガ 戦争ヲ 抛棄(ほうき)シテ

他国モ 之(これ)ニ ツイテ来ルカ 否(いな)カニ 付(つい)テハ

余ハ 今日(こんにち) 直(ただち)ニ サウナルトハ 思ハヌガ、

戦争抛棄ハ 正義ニ基ク 正シイ道デアツテ

日本ハ 今日 此ノ大旗ヲ 掲ゲテ

国際社会ノ 原野ヲ トボトボト 歩イテユク」(※8)

 

なんかこれ、すごくない? トボトボと、でも先頭を歩く決意。

他国が付いてくるかどうか、と、敗戦国なのに、言える決意。

その困難な道のりの想像と、それでも落ち込んでいる日本国民のために

「これがよいのだ」と捉えている自信が、

首相自身のなかで、ない混ぜになっている気がする。

 

ここまでの、今回の私の話の情報源はこちら。

国立国会図書館のまとめトップページと、各注釈の資料です。

http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html

(※2)国会図書館資料より http://ow.ly/yYZQN

(※3)国会図書館資料より http://ow.ly/zoIvX

(※4)国会図書館資料より http://ow.ly/zoLu9

(※5)国会図書館資料より http://ow.ly/zoJlK

(※6)国会図書館資料より http://ow.ly/zoMtY

(※7)国会図書館資料より http://ow.ly/zoPJ8

(※8)国会図書館資料より http://ow.ly/yZ8pk

 

これって全部、国会図書館の方が書いた「まとめ」だから、

これ以外にもっと「軍事万歳」な資料あるんじゃないの、とか、

そういう疑いの発想をする人がいるのも、想像はしている。

 

でも、私は、これらの資料を「選んで」まとめた担当者の方の

「人間としての善意」と「公平性」に、敬意を示したい。

そして資料そのものは決して憶測ではないから、ここの情報を元にしました。

 

で、現実論、ね。

じゃあおまえは、ガンジーのやり方を本当に選べるのか!? と言われたら、

はい、ええ、絶対に、選びます。

 

自分と血がつながった幼い命に、目の前で銃を突きつけられたら?

私は敵意がないことを示すため、その場でまず

相手の目をにらむのではなく、ずっと冷静に見つめながら!

真冬だろうが何だろうが、下着姿だけになって、

「私は平和を望みます」と書いた白い旗を掲げるよ

(「I hope the peace」でも、「我 望 平和」でも……、

攻撃が来そう、ってことになったら、白布と竹竿で事前に作っておくさ)。

 

で、それを掲げたまま、銃のごくごく近くまで、ゆっくりやわらかく、

ほほえみながら目を見つつ歩いて行って、

相手が訳わからず驚いている間に、

粘土なり自分の指なりを、おもむろに銃口に突っ込むよ。

だからそうか、粘土も事前準備だな。

そうしたら少なくとも銃は1丁、使えなくなる。

 

子どもの命を守るためなら、はい、だって私の身体だもん、

それくらいなら十分、張れます。

本気で約束できるよ。私は包丁なんて構えない。

身内の子どもたちにそんな姿、見せない。

 

人間の思い遣りと「人を愛し守る」気持ちを、

なめるなよ、って思えるからこそ、実行可能。

 

それでもし、その相手の仲間とかに、私が撃たれたら、

誰か、あとにつづいて同じことやってくれたらいいな、と願う。

お母さんとか、おばあさんとか、さ。それをただ素直に願う。

 

これをどうしても「戦い」と呼びたい人がいるのであれば、

じゃあ、はい、私はそうやって戦う、ってことだよ。

単なる主張だけどね、身体を張っての。

 

あともう1点。

「昭和30年代、岸内閣が『集団自衛権』をすでに一度、容認した」

という話が、まことしやかに昨今、ささやかれておりますが、

あれ、真っ赤な嘘だから。

 

「現在の安保条約におきまして、米国に対して施設区域を

提供いたしております。あるいは米国と他の国、米国が他の国の侵略を

受けた場合に、これに対してあるいは経済的な援助を与えるというようなこと、

こういうことを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、

こういうものを私は日本の憲法は否定しておるものとは考えません」

ですよ。ごまかし&曲解もいいところだ。

http://ow.ly/zp3Bt

 

以上、日本人は第九条を欧米各国から押しつけられたのではなく、

敗戦したからこそ、立ち直るために「放棄」を自ら

誇りを持って、鎮魂のためにも選んだのだと私が思える、

まただからこそ、武器も戦争もお節介出兵なんかも

「二度と」いらないと思える、

その根拠についての説明でした。

 

人間としての誇りを、どう掲げるのか。

未来の子ども達に後ろ指を指されるようなやり方や、

「自分さえ安心なら、他人や未来の命は関係ない」という卑怯さなんて、

日本には、日本だからこそ、必要ないのです。

私には、そう思えます。

 

堂々と胸を張って、武器と戦争を放棄した国であることを、

全世界に主張したい。誇りに思っていきたい、これからも。

あ、殴られたら、殴り返しにいくかもね! でも殺さない。

どうせ同じ、命を賭けるしかない状況になるなら、

憎しみゆえの正当性より、人間としての正当性のほうへ、

自分の最後を賭けます。

2014_07_21_2.png

 

 

 

 

 

 

 

 

正当性、とは  その1

さて。

前の話に続き、今度は、戦争という「正当性」についての検証。

 

日米が開戦したのは1941年12月8日、当時すでに

米国に併合されていたハワイ・オアフ島のパールハーバーへ、

日本が奇襲攻撃をしたことがきっかけである

(ハワイの、米国への併合は1898年)。

 

これに先立ち、まず7月26日に日本は鉄・石油などの輸入を止められ、

南方へその資源を求めるしかなくなる形で追い詰められた、という説もある。

しかも実は米国は、日本の攻撃を待っていた、それで米国内の世論を

味方につけて参戦したのだ、と。

 

けれどまあ、その前の7月2日には、すでに日本国内では

「南方にもっと進出して、資源の確保を強化するべき」という決定が

軍人も含んでの国会で決まってたようなんだよね。

だからどちらにしても、日米開戦は必須であった、とか。

Wikiから、「それぞれの立場の諸説と正当性」をざっとつかんでみてください。

http://ow.ly/znTkv

 

これ以前、すでに50年に渡り、日本は海外「進出」を始めていた。

これも、できるだけ多くの「異なった解釈」を載せてみようかな。

しかも一般人の方々のヤツを。

http://okwave.jp/qa/q1751307.html

 

で、そのそもそも、当時の「帝国主義」まで戻りましょう。

他国(他地域)を占領して、

もろもろの資源を、自国の繁栄に使う……。

古くは15世紀、スペイン・ポルトガルの南米等への進出に伴う

「強欲」から始まった、弱肉強食。殺せるもの勝ち。

アフリカ大陸から「人資源」が運ばれたり、

マヤ文明を持っていたインカ帝国が滅ぼされちゃったり……。

なんせ「新大陸」と呼んだのだからね、

そこに住んでる人は先住民、と呼んで。

米国だって「開拓」で、インディアンと戦ってたよね。

 

で、それがどんどん、激しくなっていった。

人種ごと滅ぼすなんてのも「強国として当たり前のやり方」。

 

今、ウイグルやチベットで行われている弾圧は、赤ん坊の殺害まで含み、

さまざまに非難されているけれど、公的には「内政不干渉」で済まされている。

なぜなら、たとえば英国だって、まんま同じことを

過去にやっていたから。

http://ameblo.jp/hidy0701/entry-11043517110.html

 

米国は今でも、文化保護等の施策は形式上、行いつつ

先住民たちをずっとこんなふうに扱っている。

http://withyoume.seesaa.net/article/145996630.html

 

現在も、こうして世界中でその影が引きずられている、

占領や植民地化、滅亡まで含めての施策。

それが「強い国にとってだけ」良いこと、とされて

朝鮮半島なんかも、狙われまくっていた。

 

日本は主にアジアで資源を奪ってウハウハしたかった。

戦争中、国内では、政治家&軍人に対し、

資源開発会社から接待工作の宴会つづき。

海外の資源を持ってきて、お金もジャブジャブ、毎晩ウハウハ。

これ、シャレじゃなく、若者を戦わせつつ、

国内はそんなのだったそうです(接待そのものの話について

記事が見つからない~! けっこう、まともな

学術系の記事で読んだ記憶があるのに。

とりあえずそのとき、裏を取るために、さらに探して読んでいた

「三井、三菱、住友、石原産業などが軍と結びついて進出」という

記事を紹介。「(3)資源の獲得と軍票」の項に記述あり。

『「大東亜共栄圏」の実態–日本軍占領下のアジア』

http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper41.htm )

 

アジア諸国を欧米の植民地圧力から解放した、独立させてあげた、

と、よく右の方々が力説される。それは一面では確か。

でもそうやってアジア各国で、わざわざ欧米と戦った理由は、

日本がアジアから直接、資源を持って行きたかったゆえ。

それも事実なのですよ。

そして日本流を押し付けたのも事実。

日本語を覚えて天皇を崇め奉れと、他国の人に

強制したのは、日本の「親切」だったとでも、言うつもりかしら。

 

さらに、それに反対した人を「反逆者」として扱ったのは、

日本人じゃなかった、とでも? 各国の首脳陣の勝手な行動?

指令したのも、判断したのも全部、その国の人たち?

武器では一切、脅さなかった?

どうしてもそう言うならいいでしょう、でも現地の幹部連中と

結託して、日本人の政治家と軍人がウハウハしたことまでは

否定できないよね? 何を「持ってきてウハウハ」してたんでしょう?

 

日本人が折り目正しく完璧に礼儀正しく素晴らしかったのであれば、

じゃあなんで、「抗日」なんて言葉が生まれたんでしょう。

その恨みがまだ、お隣の国々から“現在”も、送られて来ているのですが。

だからこそ“戦後”から、お隣の国々の「教育」が、

日本を恨んでヨシ、になってんじゃないの?

そこはどう解釈するの? 勝手な逆恨み?

 

……こういう背景があって、

各国の思惑があって、駆け引きがあって、

最後には実験したかっただけなのか、

戦争を終わらせるために仕方なくなのか、

日本もいずれ開発していたに違いないから、作れたものは

先に使うしかなかったからなのか、まあ、本当にこれは

諸説ふんぷん、ございますが、日本に「原爆投下」が起こりました、と。

ロシアも参戦しました、と。

 

そして、ポツダム宣言受諾と憲法改正、ですよ。

ここまでの背景、ものすごくおおざっぱですが、

あえて、日本にだって非はないわけじゃないんじゃない?

という視点で、まとめてみました。

正当性に、いろいろな形があるのだと。

 

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」で、

他人の命を消す「正当性」を欲するのは、

前世紀までで、いいんじゃないの?

 

決死の覚悟をした特攻隊の人たちが「日本と家族を守りたかった」のも

追い詰められていれば人として当たり前の話かもよ。

私だって、そう考えたかもしれない。

 

でも、じゃあ、ほかの国の人は、そうではなかったと?

そうした「本当に苦しいときの、人の思いやる心」を、

まさかの「日本人の美徳」であるかのような美談に仕立て上げまくる、

永遠のハゲの話は、だから私、本を破って棄てたんです。

 

ましてや、人を一瞬にして蒸発させるように消し去り、

座っていた跡だけ残す(これは原爆資料館の説明によると、

“強烈な熱線のため、石段の表面は白っぽく変化し、

人が腰掛けていたと思われる中央の部分だけが

影のように黒くなって残りました”だそうです)、

そんな武器を持つべき、なんて発言をする

田んぼの母親の神様は、まさにやっぱり「人」じゃないよね。

その発想の段階ですでに、人じゃなくて、

権力と「攻撃欲」におぼれた化け物だと、私は感じる。

攻撃力の強さと、その「正当性」を、

まるで自分のものであるかのように自慢し、酔いしれたいのだろうと。

 

次につづく……。

いったん休憩します。

 

 

 

私たちの「正義」

不思議なことに国単位であれば、

一方の側にとって正しいことが

なぜかもう一方を「殺してしまっていい理由」にさえなる。

そしてそれはそのとき、「正義」と呼ばれる。

 

以下の4つ(+おまけ1)を読んで、

日本がイスラエルに武器を輸出しないで済む方向を

一緒に探ってほしい。

日本が、「どちらかのみの正義」に加担しないで済む方向へ。

命を、金儲けに使わない方向へ。

 

根本的に、おかしいと思わない?

考え方が違う人間は殺しちゃいたいんだけど、

と脅しで言われた(?)からって「じゃあこっちも」って、

あっさり武器を持って、威嚇し返すこと、そのものが。

 

それ、何も「終わらない」。

悲惨な結果をいつか生み出して、諦めがつくまで、

永遠の“憎しみ合い”が、「始まる」だけ。

その、まさに今、憎しみ合いの激化が進行中の事例。

 

これ、まともに読んでみてほしい。

平和なありがたさがしみるよ、「海の日」という祝日。

それを感じてくださることを、本気で願う。

 

まず現地ジャーナリストと日本の新聞からの情報2つ。

【ガザ発】 「イスラエルはなぜ私たちの子供を殺すのか」 @tanakaryusakuさんから (悲しい写真があるので、覚悟して、でもお読みください)

http://ow.ly/znbSj

 

ガザ:死者400人超える…戦闘激化、医療態勢は崩壊寸前 – 毎日新聞

http://ow.ly/znbPO

 

次、当事者たちの「双方に理由がある言い分」2つ。

ハマスは実際、砲撃を阻止しようとしてた。

子どもを殺した兵士たちは、捕まる「かも」しれない?

いずれにせよ、どちらも、「自分たちが愛する人を

守りたいだけ」なのだと、よくわかるよ。

RT@yasegamanA: 凄い時代だなぁ。

【ガザ地区在住】パレスチナ市民だけど、なんか質問ある?

http://ow.ly/zncyi

 

【ガザ地区】イスラエル軍兵士だけど、なんか質問ある?

http://ow.ly/zncBv

 

最後におまけ。私たちが「どういう受け止め方をするか」の

危険性について。

イスラエル側に関する報道を見て、ハマスが戦闘を激化すれば

イスラエルはさらに、市街地への攻撃を大規模化できる。

メディアを読む私たちが、ひとつの情報に頼らず

しっかり情報を探さないと、こうやって

虐殺に加担さえしていくことになる。

http://ow.ly/zncb5

 

さあ、いかがでしょうか。

これ、日本人も将来、同じ穴のムジナになることを選ぶ?

イスラエルに武器を輸出して加担する?

将来、もしかしたらハマスからテロ受ける?

さらには隣の大国と、同じようにお互いの正義を

どちらかが負けるまで、ぶつけ合うってこと?

それを子どもたちにも引き継がせるってこと?

 

始めちゃったものは仕方ない、とか言って逃げるなよ。

それに机上の空論で、偉そうぶって高みの見物もするなよ。

あの最初の記事の写真の、子どもを抱えた男性が、

「あなたの子どもと孫である」日が来るかもしれない道を、

日本は歩み始めようとしてるんだから。

それをどうするか、あなたが今、

まさに「選ぶ立場にある大人」なんだから。

 

それでも、武器を作って売って持って、軍隊強化して、

場合によっては若者に「人殺しさせる」のは、

相手から威嚇されたんだから、正しい道かしら。

本当に、人間として、正しい道、なのかしら。

それを、日本人である私たちは「選ばねばならない」かしら。

ほかにもある「誤解をお互いに解いていく」道は、

どうして、ダメなのかしら。

 

あとでもう1本、日本が「戦争放棄を決めたころ」の話を書きます。

 

 

小説に触発されて……カタバミ、から

先日たまたま、有川浩さんの『植物図鑑』を読んだ。

2014_06_26_1

 

 

 

 

 

 

 

『植物図鑑』(幻冬舎文庫/税込¥741)

この小説は、著者本人が告白しているように「甘ったるい恋愛」も

確かに含まれているけれど(笑)、

道端に咲く小さな花々への視線が優しく、

著者の「道草」への、愛おしい気持ちを伝えてくれる。

しかもそれを、おいしい料理にもしてしまうという視点。

解説者の池上冬樹さんが「女性ならでは」と書かれているのも

なんとなく、納得がいく。

ということで、そういう話もここにあっていいかな、と思い立ち、

私も、好きな植物について、書いてみようと思う。

やわらかい視点も、嫌いではないので、ね( ̄∀ ̄)

あ、調理はしませんよ、ええ、たぶん(笑)。

で、まず今回は、小説への感謝と敬意もこめて、「カタバミ」。

道端の隅に、張り付くように咲いている、黄色い花。

葉は、クローバーのようにハート型の3つ葉だけれど、

もっと小さくて、茎はときに茶色がかっていたりもする。

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(写真はこちらからお借りしています→草花写真館

なぜこの花が好きかというと、実はその「種」のほうに、秘密がある。

写真で左側にある、上を向いた房状のもの。

ご存知の方も多いと思うが、この房が熟しているときに触れると

実に気持ちよく、はじけるのだ。

つまんだ瞬間、パッと種が散る。

そのつまんだ触感と、はじけ具合が、なんだか気持ちいいんだよね。

花も黄色くて小さい、可憐なものが、房の横で次々に咲いていくし。

子どものころにはよく、つまみながら帰っていた。

そのことを、鬱になるちょっと前のある晩、ふと思い出し。

たぶんそのころすでに疲れていたのだとは思うけれど(笑)、

やってみたらなんか、素直に楽しいと思えた。

ただ、30半ばの女が道端に夜遅く、しゃがんで房をつまんでいる光景は

かなり怪しかろうという自覚はあったので(笑)、

帰り道、誰もいないのを確認して、とか、

肩くらいの高さまで上がっている庭の端や、

植木鉢に生えているのを、そっとつまんでみたりしていた。

はい、それは今でもたまに、やります。

私は住宅街育ちで、今もそういうところに住んでいるので、

こういう小さな草や花に、ときどき「ホッ」とさせてもらえているのです。

そういえば、Wikiでは、「カタバミ紋」という家紋についても

情報が載っていた。

(→ウィキペディア・カタバミ

生命力も花の時期も長く、子孫が絶えない、というところにあやかって

つけられていたらしい。

可憐な姿をしつつも力強い、まさに雑草らしい雑草、と言えるのかも。

せっかくだから、この生命力に私もあやかろうかな ヽ(゜▽ ゜)ノ♪

あ、可憐のほうは無理ですがね(笑)

 

 

 

広告宣伝って……

 それに関わってきた私が言うのもなんだけど、

気をつけないとあっという間に「嫌がらせ」と紙一重になる。

いわゆる「押し付け」の部分がどうしてもある、ということね。

これって、広告の仕事をしている諸先輩方、

とくに一流デザイナーさんなどからはときにビシバシ怒られながら(笑)、

話や感覚としてたくさん、教えられてきたことなんだけど。

そういう方たちは、だからこそ、パッと咲いてパッと散る、

つまりよい印象や余韻を最後に残す、というところに

自分の能力を発揮しようと、その仕事にかけておられていて。

昔、紙媒体が主流だったころから、新聞の折込チラシでも何でも、

興味ないものが混ざってたらゴミが増えたとしか思ってもらえない。

それが、広告というものの、基本の形。

そういう一方通行な面をはっきり認識したうえで、

「それでも良いほうへ認知してもらう」ために

一所懸命に考え、表現していくものだと、私には思えている。

で、個人向けの、ネット広告の手法記事などをたまに読んでみると、

なんか気持ち悪いことに「顧客ってこんなもの」という適当な決め付けで

いかに「自分が楽して早く儲けるか」が、最近なのかな、わりと主流のようで。

そういうのに限ってまた、マーケの用語装飾(笑)も豊富。

まあ、短期間しか通用しないやり方で

黒いことやってる人は別として(これが何を指しているかは

ご想像にお任せします)、ある程度まで儲けようとするなら、

告知を楽してなるべく安価な手法で、しかも早めに

たくさん稼ごうとすること自体、「投機」に近い

一種のヤマ師のやり方だと、気づけているはずなんだけどなあ。

で、良いヤマ師でも悪いヤマ師でも(笑)、

ヤマ師になるって、かなりの技術も才能も必要なんですけど。

単にアイデア云々のみならず、知識、感覚、

人の懐になんとなくスルッと潜りこめる性格も含めて、ね。

誰とは限定しませんよ、いっぱいいるから。

たとえば代理店形式でモノを販売するのを始めて

成功させた人なんかがその典型例。そういう人こそ、

『先に』自分を信用してもらうのがすごくうまい。

で、ネット上で、別にヤマ師ほど短期集中・一発勝負でなくても、

この『先に』を普通に、いい意味で使っている人も

たくさんおられて、やはりそういう人は

「わかりやすく」成功されている。

私はホームページ制作のためのSEO関連のからみから、

ネット上のビジネスを上手にやっておられる方の様子等、以外は、

対策情報をある程度の知識として知っているだけなんだけど……。

ネットを用いての告知や商売、たとえばアフィリエイトにせよ、

せどりにせよ、その他、商材販売や広告収入狙いなどであっても。

それなりの成果や収入を上げたいなら、告知・宣伝していくうえで

きっと「その人自身」がある意味、商品的な価値を持って

他者から信用『も』されていかなければ、安定や大金には

結局、つながっていってないんだな、と思えるのだ

(昔、友人つながりで、先物取引のデイトレーダーをやっておられる人の

話を聞いたことがあるけれど、集客系以外のネット投資ビジネスで

個人的に本当に儲かっている人は、そもそも自分の

極めつけの稼ぎ方法は公開したがらない、という習性も

傾向としてあることは教えてもらった)。

そういう部分で、SEO対策と銘打って

行き当たりばったりで自動ツールを使う人なんかは、

マーケティングの言葉にあれこれ踊らされ、

自分自身が「ネギ背負ったカモ」になってることに

そろそろ気づいてもいいのでは、と思う。

もちろん自動ツールそのものを、安易に否定しているわけじゃない。

たぶん最初のころなら、ネットビジネスをやっているもの同士は

連携するきっかけになるのだろうと思う。

人脈を広げる、という部分で「同じ思考や目的」の人なら

集めやすいんだと。

でもそれをなるべく大きく使って、つまり

広告においても商品等のよさを理解してもらう「信用」へと

つなげていくためには、

マーケ的な研究や工夫はやっぱりかなり必要だろうし、

自分がそもそもどういう方向の広告手法なら向いてて、とか

そんな分析もだんだんそこに、関わってきて……。

それを無視して、ただツールの使い方を素直に信じて

適当に安直に使ってたら、よい稼ぎにまでつなげるのは

なかなか、困難だろうなあ、と。

「ま、他者のことなんてどうでもいいんだよ」なんて人も、

イヤな話だがもしかしたら増えてるのかな、とも思うけど……。

でもたとえ黒い方向のことしてたって、よほど自分が割り切れない限り

「成功」は難しいよね、やっぱり。

たまたま最近、同じような商品内容のアフィリブログへ

誘導したいのであろうか、

毎日何回もペタをつけてくれる(笑)人がいて。

大量アカウントの数戦術でアメブロ登録されているようなので、

その人(たち?)のところからいろいろ関係をたどっていってみたのです。

そうしたら、ペタをつけてくれているご本人かどうかはわからないけど

ある人のところで、プロフィールだったか、なうの画面だったか

「人に毎日、嫌がらせするのが生きがいです」という発言にたどり着き、

爆笑したことがあった。

そう、まさに、自動ツールは「そういう方々に『も』うってつけ」の

使い方ができるのです。

広告は嫌がらせと紙一重、の部分を、みごとに

「嫌がらせ」のほうへ絞って使っておられて、ある意味、王道(笑)

なのでまあ、天晴れとは思えました。

*:・( ̄∀ ̄)・:*:

とはいえ消すし、通報もするんだけどね(笑)

なんらかのビジネスを「したい」なら、

つまりはそれって、商売、ってことになるので……。

「自分がいかに『信用』されるか」という、超・当たり前の

基本中の基本は、やはり(ある程度、稼いでいきたいのであれば)

大切にされたほうがいいんじゃないですか~、などと思う。

それは広告宣伝を、従来の手法でも行っている

上場の株式会社だけに限った話ではないのだと。

私がふだん、読者登録をさせていただいている方々の記事が

昨日いくつか、そんな話だったので、ふとそう思ったのでした。

あなたもまた「顧客」のひとりなんだから、

儲けたいなら「自分が顧客」って感覚を大前提にすれば?

って、意味わかるかなあ、誰に話しかけてるのだろう、私(笑)